阿育王山 あいくおうざん・あいくわうざん(あいおうざん) 育王山 いくおうざん(いおうざん)

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金山寺・育王山図(模本)のうち育王山図 原本は雪舟(1420-1502~6没年不明)筆

雪舟が応仁度の遣明使に随行して中国に渡ったとき、彼は四十八歳であった。雪舟が乗った遣明船は大内氏の三号船で、正使・天與清啓の一号船に先立ち応仁元年(成化三年・1467)寧波に到着した。この年、雪舟は寧波の郊外にある天童山景徳寺に参じている。翌年(1468)六月、北京で大興隆寺住持の魯庵純拙から送別詩を送られ、さらにその翌年(1469)二月、遣明使一行はなお北京にいる。雪舟は五月に寧波で徐璉から送別詩を送られているので、雪舟たちは四月頃には寧波に戻っていたのだろう。遣明船三隻は中国をほどなく出航し、正使の一号船は八月に土佐に到着した。雪舟らは九州に上陸したと見られる。

 

『没後500年特別展雪舟』(毎日新聞社 2002)

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阿育王とは中国語でアショカ王(BC304-BC232)のことだそうで

あいくわうざん(阿育王山)

阿育王山は、普通略して育王山と呼び、寧ろ其名を以て知らる。支那明州鄭縣にある山の名なり。西晋の太康二年、劉薩訶なるもの、此山上に登りて一古塔を発見し、その昔阿育王の建てたる八万四千の仏塔の一なりと信じて尊重し、爾後この山を阿育王山と呼ぶに至る。続いて梁の武帝の時、此山に在る広利寺を重修して阿育王寺と改めしむ。宋に入りて懐璉此寺に在りて宸奎閣を築き、一時最も盛なる臨済宗の道場と推され、その名遠近に聞えた。其図古く宋の無準禅師の画くものあり。又我が雪舟の入唐して帰朝後画いたもので今に伝ふるもの三本あり。

浅野侯爵家所蔵、黒田侯爵家所蔵、三井男爵家所蔵

狩野探幽筆にも育王山金山寺の対幅あリ。

 

『画題辞典』斎藤隆

無準禅師とは無準師範(1177-1249)という牧谿(生没年不明)の師だそうだが

その絵がどこにあるのかわからない

阿育王寺(アウイーワンスー)

寧波市鄞州区に位置し太白山の麓にある禅宗寺院。2006年には、全国重点文物保護単位に指定された。阿育王寺の舎利殿には「釋迦牟尼眞身の舎利」が納められている。 釈迦の遺骨を納めた舎利宝塔が有名。282年に建立された中国国内で唯一インドの「アショーカ王」の名前が残っている古寺。市内から車で約40分タクシー約70元。

 

太白山というのは阿育王寺と天童寺の間の山のことらしい

あいくおうじ【阿育王寺】
中国の浙江(せっこう)省、寧波(ニンポー)の市街から約16kmの距離に位置する、阿育王山の麓にある寺院で、舎利宝塔(しゃりほうとう)で有名な中国禅宗五山の一つ。創建は、西晋の時代の西暦282年。紀元前3世紀、インド・マウリヤ朝の第3代アショーカ王阿育王)の時代、世界各地に8400あまりの仏舎利塔(釈迦の遺骨を分骨して納めた塔)が建設されたといわれている。そのうち19の塔が中国に建てられたが、この阿育王寺の舎利塔が中国で現存する唯一の仏舎利塔とされている。奈良時代に日本に帰化した唐の高僧鑑真もこの寺を訪れたとされ、曹洞宗の開祖・道元など日本の禅僧ゆかりの寺でもある。
世界の観光地名がわかる事典

寧波は古くからの国際貿易港であり遣唐使以来日本からの船の発着場でもあった

阿育王寺は仏舎利信仰の地として日本でも知られていたらしい

鑑真(688-763)は日本への渡航に失敗した時に滞在し(『唐大和上東征伝』)

 平家物語』巻第三金渡では平重盛(1138-1179)が育王山に自身の供養を依頼

道元(1200-1253)も入宋した折に寧波の港で阿育王山の典座と話し(『典座教訓』)

のちに育王山を訪れた

入宋した道元は、いったん天童山景徳(けいとく)寺に滞在したが、1224年ひとり諸山遍歴の旅にのぼり、育王山広利寺、径山(きんざん)万寿寺天台山万年寺などを歴訪

 

日本大百科全書