鸚鵡小町 おうむこまち・あうむこまち【七小町】
能楽百番 七小町 鸚鵡小町 耕漁
能画大鑑 鸚鵡小町 月岡耕漁
あうむこまち(鸚鵡小町)
謡曲の名、小町老年の後、勅に応じて鸚鵡返しの歌よむことを作つた、出所は阿仏鈔に『小町老いおとろへて後、大内をゆかしげに見物申しけるに、大内の女房たち見て、小町がはてなるといひ、又、それにはなきなどゝ云ひ争ひけるが、ある女房の云ひ給ふやうは、歌をよみかけて心を見給へ、小町ならば返歌をすべしと云ひければ、歌をよみかけたるに
もとの身のありしすみかにあらねども此の玉だれの内やゆかしき
小町はもと大内には住まぬなり、玉だれの内とは、すだれの内なり、此返しに
もとの身のありしすみかにあらねども此の玉だれの内ぞゆかしき
『東洋画題綜覧』金井紫雲
七小町 六 あふむ小町 鳥居清倍
鸚鵡小町(おうむこまち)
歌道に深く心を寄せる陽成天皇は、往年の和歌の名手小野小町(シテ)が百歳の姥となって近江国関寺のあたりにいることを聞き、臣下の新大納言行家(ワキ)を遣わして、小町の境遇を憐れむ歌を送った。小町は、帝の歌の一字だけを変える鸚鵡返しの返歌をし、歌道について語り、身の老残を嘆くが、行家の求めに応じて、業平の玉津島法楽の舞をまねて、静かに舞い、昔を恋しがりながら、行家と別れた。金春にはない。
(中略)
シテは物乞いをして都路と関寺を往復する生活を述べて、下居し、杖を下に置き笠を脱ぐ。ワキが懐中から文を出し、帝からの憐れみの歌をシテに見せると、老眼なのでそちらで詠んでほしいと返事し、ワキはうしろへ下がって下居し、「雲の上はありし昔に変わらねど見し玉だれの内やゆかしき」と詠む。シテは末句を「内ぞゆかしき」と変えて鸚鵡返しの返歌をし、和歌の徳に免じて不調法な返歌を許してほしいと述べる。ワキはおわりの〈上歌〉で脇座に戻り、下居する。
(後略)
風流やつし七小町 逢夢 鈴木春信
こま絵の図柄は、謡曲の詞章〝臂に懸けたる簣(あじか・竹籠)には 白黒の烏芋(くわゐ)あり 破れ蓑 破れ笠〟から取っている。そして「短冊」は天皇との歌の応酬を示している。つまりこのこま絵は小町が零落したことを明示する役割を果たしているのだ。古典文脈上から言えば、宮中の雲上人から遊女小町に身を落としたのであり、当世の文脈上から言えば、京の良家の娘から江戸の遊女へ身を落としたのである。
(中略)
さて禿に渡そうとする手紙の内容はどのようなものか。
〝思ひつゝ寝ればや人の見えつらむ夢としりせば覚めざらましを〟
〝ゆめぢには足もやすめず通へども現にひちめ見しごとはあらず〟
春信の念頭にはこれら小町の歌があったのではないか。歌の内容は〈逢いたい一心で寝たら心が通じたのであろうか、恋人が夢の中に現れた、夢だとわかっていたら覚めなかったものを〉そして〈夢路には盛んに通って参りますけど、現実に一目お逢いした時のような嬉しさはありません〉というもの。春信画はこれらの古歌を踏まえつつ、発想を飛躍させて、遊女小町の渡す手紙の中に、「夢」だけではなく「現(うつつ)」にも逢いたいというメッセージを盛り込んだのである。この作品の題名を「鸚鵡」とせず「逢夢」とわざわざ変えた理由がおそらくここにもあるのだろう。
私説『風流やつし七小町』—春信画に見る絵と文芸との交響— 加藤好夫
『国際浮世絵学会会誌 浮世絵芸術 NO.143』2002
七小町の内 鸚鵡小町 香蝶楼国貞
浮世七小町 あふむ 春潮
浮世七小町 鸚鵡 鳥居清長
双葉草七小町 あふむ小町 喜多川歌麿
金盥の水に顔を映して遊ぶ母と子。頭の毛を剃った後であろうか。本来の鸚鵡小町は、鸚鵡返しに返歌を詠む、というものであるが、それを水面に映る、反射するという意に転化させたものであろう。
子の髪型は芥子坊主に前髪をつけたもの