悪源太義平 あくげんたよしひら(1141-1160)【平治物語】

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本朝文雄百人一首 悪源太義平 歌川国芳

あくげんたよしひら(悪源太義平)

源義朝の長子、年甫めて十五、叔父源義賢と武蔵大倉に戦うて之を斬る乃で悪源太といふ、平治の乱起るや鎌倉より馳せて京都に赴き、義朝に従つて内裏を守り、紫宸殿に於て大に平重盛と戦ひ遂に之を走らせ更に進んで平清盛六波羅に襲ふ、利あらず、義朝敗走するに及び義平に命じ北国に兵を募らしむ、義平父に別れて美濃に入り兵を集めてゐる中、義朝殺害の報を耳にす、そこで潜に京都に帰り平氏を窺ふ、清盛探知して之を囲ませた、義平一旦は遁れたが逢坂に至り遂に捕はれて六条河原に斬らる、年僅に二十。  (国史大辞典)

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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日本花圖繪 紫宸殿の櫻 重盛 義平 尾形月耕

かう申は清和天皇九代の後胤左馬頭義朝が嫡子鎌倉悪源太義平と申者也生年十五のとし武蔵国大蔵の軍の大将として伯父太刀帯先生義賢をうちしより以来度々の合戦に一度も不覚の名をとらずとし積って十九歳見参せん

 

平治物語』巻之二 待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事

義平は坂東武者十六騎を率いて重盛の五百余騎を蹴散らしたという

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悪源太義平霊 蹄斎北馬

捕らえられ六条河原で難波三郎経房に首を切られる

悪源太あざわらひて「いしういふたり。げにわが為にはあらそはぬ後言ぞ。やれをのれは義平が頸うつほどの者か。はれの所作ぞ。ようきれ。あしうきるならばしやつらにくいつかむずるぞ」との給へば「おこの事仰らるゝ物かな。何条わが手に懸奉らん頸のいかでかつらにはくい付給はん」と申せば「誠に只今くいつかんずるにはあらず。つゐには必ず雷となつて蹴殺さんずるぞ」とて殊更頸たからかにさしあげ給へば経房太刀をぬきうしろへまはれば「ようきれ」とて見かへりてにらまれける眼ざしはげに凡人とはみえざりけり

 

平治物語』巻之三 悪源太誅せらるる事

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清盛入道布引滝遊覧悪源太義平霊討難波次郎 歌川国芳

難波次郎は難波三郎の間違いか

難波三郎経房が清盛の供で布引滝を見に行くと義平が雷になって襲いかかる

難波三郎申けるは「我恐怖する事是なり。先年悪源太最後のことばにつゐには雷と成ってけころさんずるぞとてにらみし眼つねにみえてむつかしきに彼人いかづちと成たりと夢に見しぞとよ。只今手鞠ばかりの物の辰巳の方より飛つるは面々は見給はぬか。それこそ義平の靈魂よ。一定かへりさまに経房にかゝらんとおぼゆるぞ。さりとも太刀はぬきてん物を」といひもはてねば霹靂おびたゝしくして経房が上に黒雲おほふとぞ見えし微塵になつて死にけり

 

平治物語』巻之三 清盛出家の事並びに瀧詣で付けたり悪源太雷電となる事

清盛は弘法大師の筆を首に掛けていて助かる

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清盛布引滝遊覧義平霊難波討圖 歌川芳房

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悪源太は十三の年鎌倉に下り去年十九にて都にのぼり殊なる思出もなくして生年廿にして永暦元年正月廿五日につゐにむなしく成にけり

 

平治物語』巻之三 清盛出家の事並びに瀧詣で付けたり悪源太雷電となる事