阿漕ヶ浦 あこぎがうら
能楽図絵 阿漕 月岡耕漁
阿漕 あこぎ
伊勢参宮に出かけた旅の僧(ワキ)が、阿漕が浦で一人の漁翁(シテ)に出会う。浦の名のいわれを聞くと、神宮の御料の魚を捕るため禁漁となっている浦で阿漕という男が密漁をしていたが、ことが露顕して沖に沈められたという話をし、その回向を頼んで姿を消す(中入)。僧が供養すると、阿漕の亡霊(後シテ)が現われ、かつての密漁のさまを再現し、その報いによって地獄で苦しむ有様を見せ、僧に助けを乞うてまた海底に消える。
ワキが「古き歌」として引く
「伊勢ノ海阿漕が浦に引く網も度重なれば顕はれにけり」は、『源平盛衰記』巻八「讃岐院ノ事」に末句が「人もこそ知れ」として見える.。
続いてシテが「かの六帖の歌に」と言って引く
「逢ふことも阿漕が浦に引く網も度重なれば顕はれやせん」は、
『古今和歌六帖』巻三にある
「逢ふことをあこぎの島に引く鯛のたび重ならば人も知りなん」
に基づいている。
『盛衰記』の歌も『六帖』の歌に基づくものであり、もともと第二・第三句は「たび重なる」にかかる序詞で、男女の間を歌ったものであるが、この能に用いられている形では密漁に関する歌になっている。
なお「阿漕」の語は、この古歌やこの能の描くような事柄から、普通語として、「(一)内密にしていることもたび重なれば顕れること。(二)(禁を犯して密漁することから)飽くことを知らずむさぼること」の意に用いられる。
阿漕
あこぎがうら(阿漕が浦)
阿漕が浦は勢州阿濃郡にある、昔から阿古木の浜辺に古墳一堆榎一本あつてこれを阿漕の明神と云ふ、昔納所村から太神宮へ御供調進の砌此の浦にて贄の佳肴を漁した、其故に伊勢の海士の世を渡る漁りを禁戒してゐた処、あこぎといふあま、夜々忍んで網を引き渡世としてゐた処遂にあらはれて罪科に行はれ、此の浦の波間に沈められた、その悪霊祟りをなすので、十の祢宜より社を祠り悪霊邪気の沙汰も鎮まつた、それから毎七月十六夜はかの幽霊が網を引いた日とて、その夜に限り漁を断絶した。(勢陽雑記)
謡曲の『阿漕』は此の伝説を骨子とした元清の作、前シテ漁翁、後シテ阿漕、ワキ旅僧である、一節を引く。
此浦を阿漕が浦と申す謂御物語り候へ、「総じて此浦を阿漕が浦と申すは、伊勢太神宮御降臨より以来、御膳調進の網を引く所なり、されば神の御誓によるにや、海辺のうろくづ此所に多く集まるによつて、浮世を渡るあたりの海士人、此処にすなどりを望むといへども神前の恐れあるにより、堅くいましめて是を許さぬ所に、阿漕といふ海士人業に望む心の悲しさは、夜々忍びて網を引く、しばしは人も知らざりしに度重なれば顕はれて阿漕をいましめ所をもかへず此浦の沖に沈めけり、さなきだに伊勢のをの、海士の罪深き身を苦しみの海の面、重ねておもき罪科を受くるや冥度の道までも「娑婆にての名にしおふ今も阿漕が恨めしや、呵責の責もひまなくて、苦しみも度重なる罪弔らはせ給へや、「恥かしや、古を、語るもあまり実に阿漕が浮名もらす身の、なき世語のいろ/\に錦木の数積り千束の契り忍ぶ身の阿漕がたとへ浮名立つ、憲清と聞えし其歌人の忍妻、阿漕々々といひけんも責一人に度重なるぞ悲しき。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
東海道五拾三次之内 圡山 阿漕平治 歌川豊国
阿漕平治あこぎのへいじ
古浄瑠璃の曲名。五段。角太夫が土佐掾と称したころの最初の語り物とすると、元禄(1688-1703)初年のころのものと思われる。悪人が主家を横領して妹姫を手に入れようとするが、姫は恋する若侍とともにのがれ伊勢にわび住いするうち、若侍は禁断の漁をして殺され、姫も狂死する。姫の二子は母の乳人である忠臣に助けられて仇を討つ。
『総合日本戯曲辞典』平凡社 1964
勢州阿漕浦 歌川広貞
勢州阿漕浦 せいしゅうあこぎがうら
浄瑠璃義太夫節。時代物。一段。通称「阿漕の平次」。浅田一鳥・豊田正蔵作。1741年(寛保1)9月大坂・豊竹座初演の『田村麿鈴鹿合戦』の四段目を独立させ改題した作。1798年(寛政10)1月江戸・土佐座が初演という。原作は題名どおり、坂上田村麿が逆臣藤原千方(ちかた)を討伐した鈴鹿合戦の史譚を背景に、三種の神器をめぐる葛藤を描いたもので、この四段目は『古今和歌六帖』の「逢ふことをあこぎが島に曳く網の……」の歌に禁漁伝説を絡ませた謡曲『阿漕』に取材し、古浄瑠璃『あこぎの平次』を母胎とした作。田村麿の近侍桂(かつら)平次は漁師に身をやつすうち、母の病気に戴帽魚(たいほうぎょ)が効くと聞き、殺生禁断の阿漕浦に網を入れ、宝剣を手に入れる。平次を脅す無頼漢平瓦(ひらがわら)の次郎蔵は実は桂の家来筋とわかり、禁を破った罪をかぶって縄にかかるという筋。
いかにせんあこぎがうらのうらみても度かさなれば変はる契りを
あこぎ【阿漕】[1][一] 伊勢国阿濃郡(三重県津市)の東方一帯の海岸。阿漕ケ浦。伊勢の神宮に供える魚をとるための禁漁地であったが、ある漁夫がたびたび密漁を行なって捕えられたという伝説がある。「古今和歌六帖‐三」の「逢ふことをあこぎの島に曳く鯛(たひ)のたびかさならば人も知りなん」など、諸書に現われている。[2] 〘名〙 (形動) ((一)の伝説や古歌から普通語に転じて)① たび重なること。また、たび重なって広く知れわたること。※源平盛衰記(14C前)八「重ねて聞食(きこしめす)事の有りければこそ阿漕(アコギ)とは仰せけめ」② どこまでもむさぼること。しつこくずうずうしいこと。押しつけがましいこと。また、そのようなさま。※波形本狂言・比丘貞(室町末‐近世初)「あこぎやの、あこぎやの、今のさへやふやふと舞ふた、最早ゆるしてたもれ」※浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡(1712頃)中「あこぎな申ごとなれど、お侍のお慈悲に、父(とと)かといふて私にだき付て下されませ」[語誌](一)の伝説から、(二)①の意に用いられたが、江戸初期から「図々しい」「強引だ」というマイナスの意味が派生した。これは謡曲「阿漕」や御伽草子「阿漕の草子」、浄瑠璃「田村麿鈴鹿合戦」などをはじめ、神宮御領地を犯す悪行として描いた作品によって定着していった解釈に基づくものと思われる。