敦盛 あつもり【平家物語 巻九 敦盛最期】 平敦盛 たいらのあつもり(1169-1184) 熊谷直実 くまがいなおざね・くまがひなほざね(1141-1208)

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一の谷合戦図屏風

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一ノ谷落城熊谷討敦盛 楊洲周延

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敦盛熊谷 豊原周延

あつもり(敦盛)

平敦盛は参議経盛の子、従五位下に叙せられたが、官が無いので世呼んで無官大夫といふ、一谷の城陥るに及び、平氏一族を挙げて舟に乗て遁る、敦盛は後れて唯一騎水浜に赴き、従兄知盛を追うて海に入ること一町ばかり、此時源氏の方熊谷直実馬を馳せて敦盛を呼び、勝負を決せよといふ、敦盛轡を還して直実と渡り合ひ馬より落つ、直実鎧の袖を以てこれを圧し刀を抜いて斬らうとしたが、紅顔の美少年なので之を憐み姓名を問ふ、敦盛は唯速に斬れといふ、直実遂に之を討つたがこれに因り熊谷発心して蓮生坊となる

 

軍破れにければ熊谷次郎直実『平家の君達助け船に乗らんと汀の方へぞ落給らん、哀れ好らう大将軍に組ばや』とて、磯の方へ歩まする処に、練貫に鶴縫ひたる直垂に、萌黄匂の鎧着て鍬形打たる甲の緒を縮め、金作りの太刀を帯き、切羽の矢負ひ滋籐の弓持て、連銭芦毛なる馬に金覆輪の鞍置て乗たる武者一騎、沖なる船に目を懸て、海へさと打入れ、五六段計泳がせたるを、熊谷『これは大将軍とこそ見参らせ候へ、正なうも敵に後を見させ給者哉返させ給へ』と扇を揚て招きければ、被召て取て返す、汀に打上らんとする所に押並で無手と組でどうと落ち、取て押へて頸を掻んとて、甲を押仰けて見ければ年の頃十六七計なるが薄仮粧して鉄醤黒也、我子の小次郎が齢程にて容顔誠に美麗なりければ、何くに刀を可立共不覚『抑如何なる人にてましまし候ぞ名乗らせ給へ、扶け参せん』と申せば『汝は誰ぞ』と問給へば、『物其者では候はね共、武蔵国の住人熊谷次郎直実』と名乗申す、『さては汝に逢ては名乗まじいぞ、汝が為には好い敵ぞ、名乗らず共頸を取て人にとへ見知うぞ』と宣ひける『哀、大将軍や此人一人討ち奉たり共、可負軍に可勝様もなし、又不奉討共勝べき軍に負る事よも有じ、小次郎が薄手負たるをだに直実は心苦う思ふに此殿の父の討れぬと聞て如何計か歎き給はんずらん、哀れ奉扶らばや』と思ひ、後に屹と見れば、土肥、梶原五十騎計で続いたり、熊谷涙を押て申けるは『助け参らせんとは存候へども、御方の軍兵雲霞の如く候、よも逃させ給はじ、人手に懸参せんより、同くは直実が手に懸参せて、後の御孝養をこそ仕候はめ』と申ければ、『唯とう/\頸を取れ』とぞ宣ける、熊谷余にいとほしくて何にか刀を可立共不覚、日も暗れ心も消果てて、前後不覚に思けれ共、さてしも可有事ならねば、泣々頸をぞ掻ける、『哀弓矢取る身程口惜かりける者はなし、武芸の家に生れずば、何とてかゝる憂目をば見るべき、情なうも討奉たる者哉』と、掻口説袖を顔に押当て、さめ/゙\とぞ泣居たる、良久ありて去も可在ならねば鎧直垂を取て、頸を裹まんとしけるに、錦の袋に入たる笛をぞ腰に被差たる『あないとほし、此暁城の内にて管絃し給つるは此人々にておはしけり、当時御方に東国の勢何万騎か有らめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有じ、上臈は猶も優しかりけり』とて、九郎御曹子の見参に入たりければ、是を見る人涙を無不流、後に聞けば修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて生年十七にぞ成れける、其よりしてこそ熊谷が発心の思ひは出きにけれ、件の笛は祖父忠盛、笛の上手にて鳥羽院より下給られたりけるとこそ聞えし、経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるに依て被持たりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける。

(『平家物語』巻九 敦盛最期)

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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平敦盛熊谷直実 勝川春章

くまがひなほざね(熊谷直実

武将、二郎と称す、直貞の子、幼にして恬む所を失ひ兄直正と姨夫久下直光の家に育はる、直実慷慨にして剛直、源頼朝兵を起すや直実は大庭景親等と共に之れを攻め後、頼朝に降る、頼朝佐竹秀義を攻むるに当り直実は平山季重等と共に之に赴き先登し多くの首を挙ぐ、頼朝之を賞して地頭職たらしめた、寿永三年義経に従つて木曽義仲を攻め大功あり、一の谷の役では一子直家と共に西門に血戦し平氏敗るゝや之を逐ひ無官大夫敦盛 を斬る、後ち薙髪して蓮生坊と改め承元二年九月十四日没した。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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熊谷次郎直実無官太夫敦盛 豊国

熊谷直実 くまがいなおざね

鎌倉幕府成立期の在地武士。直貞の次男。武蔵国熊谷郷を本拠地とした。1180年(治承4)の石橋山の戦いでは平家方であったが、のち源頼朝に従い、佐竹追討に際しての戦功で、一族の久下直光に押領されていた熊谷郷を安堵された。その後、平家追討の戦いでは源義経に従って活躍。87年(文治3)の鶴岡の流鏑馬に際して的立て役を命じられたが、同じ御家人で騎馬の射手がいるのに対し、徒歩の役につくのは恥辱だと拒否。92年(建久3)かねてよりの久下直光との境相論に敗れたことから激怒して出家、法然の弟子となって蓮生と号した。一所懸命の地を守り、侍の身分であることを誇りとした東国武士の典型である。なお、『平家物語』では、直実が出家したのは、一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取ったことによるとしているが、これは史実ではない。

 

『日本架空伝承人名辞典』平凡社 1986

 

 

 

『源平闘諍録』では直実が討ったのは敦盛の息成盛とする。また、延慶本・長門本平家物語』『源平盛衰記』では、直実が敦盛の首と笛・巻物に、自分の書状を添えて屋島の経盛に届け、経盛からも丁重な書状を受け取ったことなどが書かれている。古くは敦盛は名のって討たれる形式であったようだが、覚一本系統では名のらずに討たれることになり、また彼が笛の名手であることが強調されて、敦盛最期をより劇的に描き、また風雅の道に力点を置いている。これら敦盛最期のさまは、のちに出家した直実の心理と行動を通して語られており、直実すなわち蓮生法師の発心譚としての性格がもともとあると考えられている。

 

『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986

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能楽図絵 敦盛 耕漁

謡曲 敦盛

源氏の武将熊谷次郎直実は、一の谷の合戦の際に、平経盛の子で当時十六歳の敦盛を討ったが、その健気な最期を見て発心し、出家して蓮生法師となった(『平家物語』巻九)。

ある日、蓮生(ワキ)が敦盛の菩提を弔うため一の谷へ赴くと、草刈男たちが笛を吹きながらやって来る。樵歌牧笛の故事などを話した後、ただ一人残った男(シテ)が蓮生に十念を所望し、自分が敦盛の霊であることを明かして消える(中入)。その夜、念仏を唱え弔う蓮生の前に敦盛の霊(後シテ)が現われ、平家の運命を悲しみ、ありし日の管弦の遊びを懐かしみ、最期の様子を語り、重ねて弔いを乞うて姿を消す。世阿弥作(『申楽談儀』)。

 

『岩波講座 能・狂言Ⅵ』能鑑賞案内 岩波書店 1989

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能楽図絵 生田敦盛 耕漁

 謡曲 生田敦盛

一の谷で戦死した平敦盛の遺児が法然上人に拾われ、はや十歳に成長した。賀茂明神に参籠して父との再会を祈るこの少年僧(子方)は、霊夢に従い津の国生田の森へ赴き、夢の中で亡父敦盛の霊(シテ)と感動の対面をする。が、再会の喜びも束の間、父は子の前で修羅の苦しみを見せ、再び姿を消してしまう。金春禅鳳作(『能本作者註文』)。喜多にはない。

 

『岩波講座 能・狂言Ⅵ』能鑑賞案内 岩波書店 1989

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熊谷直実平敦盛 鈴木春信

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熊谷直実平敦盛 鈴木春信