扇の的 おうぎのまと・あふぎのまと【平家物語 巻十一 那須与一】 那須与一 なすのよいち(生没年未詳)

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 源平八島のたたかひに那須の与市宗高扇のまとを射おとして天下に高名の図 遠浪斎重光

あふぎのまと(扇の的)

源平屋島の戦ひに、那須与一宗高が玉虫の前の掲げた扇の的を射て名をあげた物語で、古来合戦絵中の好画題として画かる、『源平盛衰記』第四十二巻に出づ。

二月廿日の事なるに、柳の五重に紅の袴著て袖笠かづける女房あり、皆紅の扇に日出たるを枕に挟みて船の舳頭に立て、是を射よとて源氏の方をぞ招たる、此女房と云は建礼門院の后立の御時、千人の中より撰出せる雑司に、玉虫前とも云又は舞前共申、今年十九にぞ成ける、雲の鬢、霞の眉、花のかほばせ、雪の膚、絵に書とも筆も及がたし、折節夕日に耀ていとゞ色こそ増りけれ(中略)源氏は遥に是を見て、当座の景気の面白さに目を驚かし、心を迷す者もあり、此扇誰か射よと仰られんと肝膾を作り、難唾を飲る者もあり、判官畠山を召す、重忠は木蘭地直垂にふし縄目の鎧着て、大中黒の矢負ひ、所籐の弓の真中取、黒の馬の太逞に金覆輪の鞍置、判官の弓手の脇に進むで畏つて候、義経は女にめづる者と平家に云なるか、角構へたらば定て進み出で興に入ん処を、よき射手を用意して、真中さし当て射落さんと、たばかり事と心得たり、あの扇被射なんやと宣へば、畠山畏つて、君の仰、家の面目と存ずる上は子細を申すに及ばず、但是はゆゝしき晴芸也、重忠打物取ては鬼神と云共更に辞退申まじ、地体脚気の者なる上に、此間馬にふられて気分をさし手あはらに覚え侍り、射損じては私の恥はさる事にて、源氏一族の御瑕瑾と存ず他人に仰よと申、畠山角辞しける間諸人色を失へり、判官は偖誰か存べきと尋ね給へば、畠山当時御方には、下野国住人那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ加様の小者は賢しく仕り候へ、彼等を召るべし、人は免し候はず共強弓遠矢打物などの時は、可蒙仰と深申切たり、さらば十郎とて召れたり、褐の直垂に洗革の鎧に片白の甲、二十四指たる白羽の矢に、笛籐の弓の塗籠たる真中取て、渚を下にさしくつろげてぞ参たる、判官あの扇仕れと仰す、御諚の上は子細を申すに及ね共、一谷の巌石を落しし時、馬弱くして弓手の臂を沙につかせて侍りしが灸治も未癒、小振して定の矢仕ぬ共不存、弟にて候与一冠者は、小兵にて侍れ共、懸鳥的などはづるゝは希也、定の矢仕ぬべしと存、可被仰下と弟に譲て引へたり、さらば与一とて召れたり、其日の装束は紺村紺の直垂に緋威の鎧、鷹角反甲居頸に著なし二十四指たる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の太刀を帯、宿赫白馬〈さびかまけ〉の太逞に、洲崎に千鳥の飛散たる貝鞍置きて乗たりけるが、進むで判官の前に、弓取直して畏れり、あの扇仕れ、晴の所作ぞ不覚すなと宣ふ、与一仰承り、子細申さんとする処に伊勢三郎義盛、後藤兵衛尉実基等、与一を判官の前に引居て、面々の故障に日既に暮なんとす、兄の十郎指申上は子細や有るべき、疾々急給ヘ/\、海上暗く成なばゆゆしき御方の大事也、早々と云ければ、与一誠にと思ひ、甲をば脱童に持せ、揉烏帽子引立て薄紅梅の鉢巻して手綱掻繰、扇の方へと打向ける生年十七歳、色白小髭生、弓の取様馬の乗貌、優なる男にぞ見えたりける、波打際に打寄て、主上を奉始、国母建礼門院北政所、方々の女房達、御船其数漕並べ、屋形屋形の前後には、御簾も几帳もさゝめきけり(中略)そこしも遠浅なり、鞍爪鎧の菱縫の板の浸るまで打入たれ共、沛艾の馬なれば海の中にてはやりけり、手綱をゆりすゑ/\鎮むれども、寄る小波に物怖して足もとゞめず狂けり、扇の方を急見れば、折節西風吹来て船は艫舳も動つゝ扇枕にもたまらねば、くるり/\と廻けり、何所を射べしとも覚ず、与一運の極と悲くて眼をふさぎ心を静めて、帰命頂礼八幡大菩薩、日本国中大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏神那須大明神、弓矢の冥加有べくば扇を座席に定めて給へ、源氏の運も極、家の果報も尽べくば、矢を放ぬ前に深く海中に沈め給へと祈念して、目を開て見たりければ、扇は座にぞ静れる、物繋〈さすが〉に有の射にくきは、夏山の滋緑の木間より、僅に見ゆる小鳥を不殺射こそ大事なれ、挟みて立たる扇也、神力既に指副たり、手の下なりと思ひつゝ十二束二つ伏の鏑矢を抜出し爪やりつゝ滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり、源氏の方より今少打入給へ/\と云、七段計を阻たり、扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放、浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置てふつと射切たりければ、蚊目は船に留りて、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける、折節夕日に輝きて、波に漂ふ有様は、竜田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり、鳴箭は抜けて潮にあり、澪浮洲と覚えたり、平家は舷を叩て、女房も男房も、あ射たり/\と感じけり、源氏は鞍の前輪箙を叩て、あ射たり/\と誉ければ、舟にもどよみにてぞ在ける。

那須与一を画いた重な作、古来少からず、菊池容斎に名作があり、その他歴史画として多く描かる。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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那須与一 楊洲周延

さるほどに阿波讃岐に平家を背いて源氏を待ちける者共彼処の峰此処の洞より十四五騎二十騎うち連れうち連れ馳せ来たるほどに判官ほどなく三百余騎になり給ひぬ今日は日暮れぬ勝負を決すべからずとて引き退く処にここに沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘汀へ向かひて漕ぎ寄せさせ渚より七八段ばかりにもなりしかば舟を横様に成すあれはいかにと見るほどに舟の内より年の齢十八九ばかりなる女房の柳の五衣に紅の袴着たるが皆紅の扇の日出だいたるを舟の船枻に挟み立て陸へ向かつてぞ招きける判官後藤兵衛実基を召しあれはいかにと宣へば射よとにこそ候ふめれ但し大将軍の矢面に進んで傾城を御覧ぜられん処を手練れに狙うて射落せとの謀と存じ候へさりながらも扇をば射させらるべうもや候ふらんと申しければ判官御方に射つべき仁は誰かあると宣へば上手共多う候ふ中に下野国の住人那須太郎資高が子に与一宗高こそ小兵では候へども手は利いて候ふと申す判官証拠いかにと宣へばさん候ふ翔鳥などを争うて三つに二つは必ず射落し候ふと申しければ判官さらば与一召せとて召されけり与一その比は未だ二十ばかりの男なり褐に赤地の錦を以て壬衽彩へたる直垂に萌黄威の鎧着て足白の太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ薄切斑に鷹の羽割り合はせて矧いだりける觘目の鏑をぞ差し添へたる滋籐の弓脇に挟み甲をば脱ぎ高紐に懸け判官の御前に畏る判官いかに宗高あの扇の真中射て敵に見物せさせよかしと宣へば与一仕つとも存じ候はずこれを射損ずるほどならば長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし一定仕らうずる仁に仰せ付けらるべうもや候ふらんと申しければ判官大きに怒つて今度鎌倉を立つて西国へ赴かんずる者共は皆義経が命を背くべからずそれに少しも子細を存ぜん殿原はこれより疾う疾う鎌倉へ帰らるべしとぞ宣ひける与一重ねて辞せば悪しかりなんとや思ひけんさ候はば外れんをば知り候ふまじ御諚で候へば仕つてこそ見候はめとて御前を罷り立ち黒き馬の太う逞しきに丸海鞘摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける弓取り直し手綱掻い繰つて汀へ向いてぞ歩ませける 御方の兵共与一が後ろを遥かに見送りて一定この若者仕つつべう存じ候ふと申しければ判官世にも頼もしげにぞ見給ひける矢比少し遠かりければ海の面一段ばかりうち入れたりけれどもなほ扇のあはひ七段ばかりもあるらんとぞ見えし比は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに折節北風烈しくて磯打つ波も高かりけり舟は揺り上げ揺り据ゑて漂へば扇も串に定まらず閃いたり沖には平家舟を一面に並べて見物す陸には源氏轡を並べてこれを見るいづれいづれも晴れならずといふ事なし与一目を塞いで南無八幡大菩薩別しては我国の神明日光権現宇都宮那須湯泉大明神願はくはあの扇の真中射させて賜ばせ給へ射損ずるほどならば弓切り折り自害して人に二度面を向くべからず今一度本国へ迎へんと思し召さばこの矢外させ給ふなと心の内に祈念して目を見開いたれば風少し吹き弱つて扇も射よげにぞなりにけれ与一鏑を取つて番ひよつ引いてひやうと放つ小兵といふ条十二束三伏弓は強し鏑は浦響くほどに長鳴りして過たず扇の要際一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる鏑は海に入りければ扇は空へぞ揚がりける春風に一揉み二揉み揉まれて海へさつとぞ散つたりける皆紅の扇の日出だいたるが夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られけるを沖には平家舷を叩いて感じたり陸には源氏箙を叩いて響めきけり

 

平家物語巻十一 那須与一

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扇の的 勝川春章

那須与一

十七歳のとき義経に従って屋島合戦に参加、扇の的を射落した賞として、頼朝から丹波国五賀庄・信濃国角豆庄・若狭国東庄宮川原・武蔵国太田庄・備中国檜原庄の五ヶ所を賜ったという。建久元年(1190)十月、頼朝の上洛に供奉して山城国伏見で死去、その地の即成院に葬られたと伝える。子息がいなかったため、頼朝の命令により家督は兄の五郎之隆が継ぎ、資之と改名した。十一人の兄弟の内、兄十郎為隆と与一だけが源氏に属し、他は平家に属したという。また、為隆も義経の命令に背いたため、末弟でありながら与一が那須家を継いだとする。

 

『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986

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賢女八景 八嶋夕照 玉蟲前 歌川国芳

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見立屋島の合戦 鈴木春信

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見立那須与一 川又常行

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童戯武者尽 矢場に那須の与一 広重