荒海障子 あらうみのしょうじ 手長足長 てながあしなが

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荒海障子図様 早稲田大学図書館

あらうみのしょうじ 荒海障子

清涼殿の萩の戸の前なる弘廂の九間の所に立てた布障子である。手長足長を描く。

北妻布障子即荒海障子とみえたり、表に手長足長の絵ある故に名づく、北裏に宇治川網代をかけて水魚をとらんとする絵をかきたり、枕草子に清涼殿のうしとらのすみの北のへだてなる御さうじには、あらうみのかたいきたるものどもの、おそろしげなる手長、あしながをぞかゝれたる上の御局の戸おしあけたれば、常に見ゆるを悪みなどすとあり。(大内裏図考証

弘廂板九枚、北有荒海障子南方手長足長、北面障子宇治網代墨絵也。(禁秘抄)

嵯峨天皇弘仁九年四月の条に『弘仁中被施画図』と見え、『著聞集』には一条天皇以来のものと記されてゐる。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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三才圖會

手長足長(てながあしなが)

 長臂人・長股人を採り入れたのは、日本の内裏であった。ここでは両人は手長・足長と名を改め、清涼殿の荒海の障子に二人の魚を捕る姿が描かれたのである。その模様は、清少納言の『枕草子』二十一段が「北の隔てなる御障子は、荒海の絵、生きたるものどもの恐ろしげなる、手長・足長などをぞ、描きたる、上の御局の戸をおしあけたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ」と述べているように、気味の悪い、嫌なものとして女房たちに把えられていた。ほかにも、『大鏡』巻三、『禁秘抄』上巻、『古今著聞集』巻十一にもこれへの言及がある。

 しかし、手長足長図が女房たちを恐がらせるために描かれたのではないことは明らかである。『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』巻四、「手長足長事」によれば、神輿の水引にもこれが描かれたと記し、その理由として『千字文』を引いている(牟田橘泉『禁秘抄考証』も同)。

(中略)

これから、手長・足長が不老長寿の神仙に比定され、宮殿を装飾するために描かれたことが判明しよう。神仙を描くということは、天皇の長寿、ひいては朝廷の永久性を願う意味がこめられていよう。かくて、『千字文』と『山海経』とが結びつき、日本の手長・足長が誕生したのである。『山海経』の影響を引きずっていることは、容姿とならんで、両人が魚を捕っている姿で描かれていることからもわかる。

 

 『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986

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頭書増補訓蒙図彙大成

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