蟻通 ありどおし・ありとほし 紀貫之 きのつらゆき(871?―946)

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蟻通明神 英一蝶

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蟻通図 英一蝶

 『貫之集』第九や、謡曲「蟻通」に取り上げられた蟻通明神の故事を描いた三幅対。もと備後福山藩主阿部家に伝えられた。紀貫之紀伊の玉津嶋神社参詣への途中、蟻通明神の前を馬で通ろうとすると、大雨になり、馬が病み悩まされる。そこに社人が表れ、社頭での騎馬の無礼をとがめ、和歌で神を慰めるよう伝える。そこで「かき曇りあやめも知らぬ大空に有りと星とは思ふべしや」と詠むと、社人は感心して蟻通明神の化身であることを伝える。「有りと星」を「蟻通」と掛けて詠み込んでいる。

 

『一蝶リターンズ 元禄風流子英一蝶の画業』板橋区美術館 2009

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蟻通明神 北斎

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雨夜の宮詣(見立蟻通明神図)鈴木春信

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0255/bunko08_d0255_0001/bunko08_d0255_0001_p0017.jpg

画典通考 岡子雉 著述  橘守国 図画 早稲田大学図書館

ありとほし(蟻通)

和泉国泉南部長滝村にある神社、蟻通明神といふ、此の明神のこと『大鏡』や『古事談』にも見える、支那の天子から日本の天子に曲玉の中へ糸を通せといふ難題をかけられた時、玉の口に蜜を塗り、蟻を誘つて糸を通したといふ伝説は、『枕草子』に出づ、

(中略)(『枕草子』社は)

一つは、紀貫之の歌の徳により、蟻通明神の祟を鎮め奉つたといふ『貫之集』から取つた挿話で、謡曲にもこれを作つてゐる、『貫之集』の載する所を引く。

紀の国に下りてかへりのぼる道にて、俄に馬の死ぬべくわづらふ所にて、道ゆく人立とまりていふやう、是はここにいますがる神のし給ふならむ、年頃社もなくしるしも見えねど、いとかしこくてましましける神なり、さきさきかやうにわづらふ人々あるところなり、祈り申し給へよといふに、みてぐらもなければ、何わざすべくもあらず、ただ手を洗ひひざまづきふしおがむに神おはしげもなしや、そもそも何の神とかいふといへば、ありどほしの神となむ申すといふを聞き詠て奉りける馬の心地やみにけり。

かきくもりあやめも知らぬ大空にありどほしをば思ふべしやは

蟻通は能画として、又大和絵として画かれたものが多い。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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能楽図絵 蟻通 耕漁

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/image/PB/arc/Prints/arcUP/arcUP1571.jpg

蟻通 文挙  ARC所蔵arcUP1571

蟻通(ありどおし)

和歌の道をきわめようと玉津島明神参詣を思い立った紀の貫之(ワキ)が、とある里近くまで行くと、にわかに日が暮れて大雨となり、馬が倒れ伏してしまう。途方にくれる貫之の前に宮守の老人(シテ)が松明を持って現われ、その光ではじめて、近くに蟻通の明神の社があることがわかった。神前で下馬の礼を欠いたため、神の怒りに触れたのだと宮守は言い、貫之に献歌を勧める。貫之が歌を手向けると、神慮に叶ったしるしに、馬はいなないて起き上がる。貫之に頼まれて宮守が祝詞を捧げると、明神が宮守に憑き、和歌に寄せる志に感じて姿を見せたと言って、鳥居の笠木に隠れて消える。貫之は喜び、再び旅路につく。世阿弥作(『申楽談儀』)。

 

 『岩波講座 能・狂言 Ⅵ能鑑賞案内』岩波書店 1989

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三十六歌仙絵巻 紀貫之

むすぶ手のしづくに濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな(古今和歌集

紀貫之 きのつらゆき (871?―946)

平安前期の歌人。『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)として有名。また、『土佐日記』の作者、『新撰和歌』の編者でもある。三十六歌仙の一人。父は望行。宮中で位記(いき)などを書く内記の職などを経て、40歳代なかばでようやく従(じゅ)五位下となり、以後、930年(延長8)に土佐守(とさのかみ)に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わった。官人としてはそのように恵まれなかったものの、歌人としては華やかな存在であった。
 早く892年(寛平4)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目だつ存在ではなかった。『古今集』(905成立)撰者に任じられ、従兄(いとこ)友則(とものり)の死にあって指導的な役割を果たすこととなり、『古今集』の性格を事実上決定づける。集中第1位の102首を入れ、画期的な仮名序をものして、名実ともに歌界の第一人者となる。『古今集』以後の活躍は目覚ましく、そのころからことに盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐(だいご)宮廷関係の下命に応じて多数を詠作した。907年(延喜7)の宇多(うだ)法皇の大井川御幸には9題9首の歌と序文を献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠する。この間、藤原兼輔(かねすけ)・定方(さだかた)の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めている。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇すでに崩じ、帰京後序を付して手元にとどめた。『土佐日記』は土佐からの帰京の旅から生まれた作品である。以後はもっぱら藤原権門の下命によって屏風歌の詠作に従って晩年に至る

 

『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館

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百人一首繪抄 紀貫之 豊国

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける古今和歌集

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三十六歌仙 紀貫之 鈴木春信

桜ちる木の下風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける(拾遺集)