業平 ありわらのなりひら(825-880) 瀧見業平 たきみなりひら【伊勢物語 第八十七段】
ありはらなりひら(在原業平)
平安朝の歌人、阿保親王の五子、世に在五中将、又在中将といふ、天長年間父親王の奏請により兄行平と共に在原朝臣の姓を賜ひ、臣籍に列す、貞観年中右馬頭に任ぜられ勅を奉じて鴻臚館に渤海使人を労す、右近衛中将となる。是れより先、文徳天皇、惟喬親王を愛して太子とせられやうと思召したが、藤原氏の出でないので己を得ず藤原良房の女、明子を母とする四子惟仁親王に譲位し給うた、清和天皇である、天皇時に御年僅に九歳、良房はその養子基経と共に、長良の女高子を納れ天皇に配せんとした、業平は夙に心を惟喬親王に寄せてゐたので、文徳天皇御譲位の折にも惟喬親王を立てゝ大に藤原氏と争つたが遂に敗れたので、良房が高子を後宮に納れんとするを見て心平かならずこれを妨げやうとして密に高子と通じ、且つ五条宮に誘ひ宮外に走つたので、基経は大に怒り業平の髻を切つて東国に逐うた、これが即ち『業平東下り』である、幾何もなく業平は再び都に帰つたが、高子は業平と通じた故を以て清和天皇の女御とはなれず、内侍として後宮に入り貞観七年皇子陽成天皇を生んだ、こゝで業平の計画は全く画餅に帰してしまつた、十四年惟喬親王出家し給うたので又栄達の志なく、放縦不羈の生活に帰つてしまつた、併し惟喬親王に対する志は毫も変らず、雪中小野の山荘に親王を訪ひ、帰るに臨んで、
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは
の一首を詠じた、元慶年中相模、美濃の権守を歴て四年五月廿八日死す、年五十六
『東洋画題綜覧』金井紫雲
瀧見業平 俵屋宗達
風流錦絵伊勢物語 な 布引の滝 勝川春章
昔男津の国むばらの郡蘆屋の里にしるよしして行きて住みけり。昔の歌に、
蘆の屋の灘の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささず来にけり
とよみけるぞこの里をよみける。ここをなむ蘆屋の灘とはいひける。この男なま宮仕へしければ、それを頼りにて衛府の佐ども集まり来にけり。この男の兄も衛府の督なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて、「いざ、この山の上にありといふ布引の滝、見にのぼらむ」と言ひて、のぼりて見るに、その滝物よりことなり。長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩をつつめらむやうになむありける。さる滝のかみに、藁座の大きさして、さしいでたる石あり。その石の上に走りかかりたる水は、小柑子、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人にみな滝の歌よます。かの衛府の督まづよむ、
わが世をば今日か明日かと待つかひの涙の滝といづれ高けむ
あるじ次によむ、
ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに
とよめりければ、かたへの人笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。
帰り来る道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。宿りの方を見やれば海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじの男よむ、
晴るる夜の星か河辺の蛍かもわが住む方の海人のたく火か
とよみて、家に帰り来ぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女の子どもいでて、浮き海松の波に寄せられたる拾ひて、家のうちに持て来ぬ。女方より、その海松を高坏にもりて柏をおほひて出したる、柏に書けり。
渡つうみのかざしにさすといはふ藻も君がためには惜しまざりけり
ゐなか人の歌にては、あまれりやたらずや。
伊勢物語 第八十七段
小町と業平 鈴木春信
伊勢物語 第八十二段
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今集)
伊勢物語 第八十八段
おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの(古今集)
千早振る神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは(古今集)
見立業平涅槃図 英一蝶