在原行平 ありわらのゆきひら(818―893) 松風村雨 まつかぜむらさめ 松風 まつかぜ

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見立三十六歌撰之内 藤原清正 中納言行平 豊国

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百人一首之内 中納言行平 国芳

たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む(古今集

ありはらゆきひら(在原行平

平安朝時代の歌人にて、在原業平の兄なり。仁明、文徳、清和.陽成、光孝の諸朝に仕え、官民部卿に至る。攝州須磨に配流せられしことありしにや、古今集なぞにも見ゆ。謡曲「松風」は其の須磨配流の節松風村雨という姉妹の漁女を寵りしという伝えあるを取れるものなり。

 

『画題辞典』斎藤隆

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須磨の行平 喜多川歌麿

松風村雨

平安時代在原行平が須磨にわび住まいした際、多井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」・「村雨」と名付けて愛しました。行平が都に帰った後、姉妹は、行平の住居のかたわらに庵をむすび、行平の無事を祈りました。 現在の堂は、その庵の跡だと伝えられています。

 

須磨観光協会

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03651/ru04_03651_0010/ru04_03651_0010_p0018.jpg

須磨浦

摂津名所図会 秋里籬嶌 著述  竹原春朝斎 図画  早稲田大学図書館

まつかぜむらさめ(松風村雨

昔、在原行平が須磨にあつた時、戯れたといふ姉妹の海女、讃岐国塩飽の大領時国の女で、継母の毒手を遁れて須磨にさすらひ、漁師の家に養はれ汐汲みなどしてゐる中、会々行平此の地に適せられ浜辺で二人の姉妹に出あひ、その姿の美しいのを見て、その家を訪ねると、二人は即座に和歌で

白波のよする渚に世をすごすあまが子なれば宿も定めず

と答へた、その中に行平勅免となつて京に帰ることになつたので、冠と唐衣を片見として二女に与へる、二女は

かたみこそ人はあだなれこれなくばわするることもありもこそすれ

と詠み、唐衣を着、冠を頂いて狂女となつてしまうといふ筋で、二女の旧棲の地は田井畑村で近頃まで村雨堂が残つてゐたといふ。

松風村雨の物語は有名であるが、正しい書には伝はらず、選集抄に『行平須磨浦に流されてありし頃、絵島の浦にて蜑に心とまりて其家を問ひしに蜑とりあへず』として、前の白波の歌を以て答へたといふことがあるが、行平が須磨に配流されたことも国史には見当らない。だがこの物語は謡曲の『松風』となつたりして人口に膾炙されてゐるので、土佐や浮世絵に多く画かれてゐるのである。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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実競色乃美名家見 中納言行平 磯の塩汲松風 喜多川歌麿

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松風と村雨 鈴木春信

わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ(古今集

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風流うたひ八景 松風の秋月 鈴木春信

松風村雨 まつかぜむらさめ

有原業平の兄である行平をめぐる説話の主人公となった姉妹。行平は文徳朝(850-858)のころ、ある事件に関わって須磨に籠居し、これが『源氏物語』須磨巻のモデルとなったといわれ、さらにそこから行平が須磨で松風・村雨の姉妹に馴染んだという伝説が生まれた。

行平は平城天皇の皇子阿保親王を父とし、官職を歴任したが、また平安時代歌人としても有名で、その歌は『古今集』『後撰集』などに採られ、『伊勢物語』にも歌物語に仕立てられている。

 

『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986

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松風 月岡耕漁

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能楽百番 松風 月岡耕漁

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能楽図絵 松風 月岡耕漁

松風 まつかぜ

西国行脚の僧(ワキ)が須磨の浦で由ありげな松を見て、里人(アイ)に尋ねる。それは行平中納言が須磨に流されていた時に愛した松風・村雨姉妹の旧跡であった。僧が近くの塩焼き小屋に立ち寄ると、そこへ、折からの月光の下で、二人の女(シテ・ツレ)が、海人の身を嘆きつつ潮汲車を引いて帰ってくる。塩屋で、僧が旧跡を弔ったことを述べ、行平の和歌を口ずさむと、二人は涙にくれ、自ら松風・村雨の幽霊と明かし、行平との恋物語を語る。やがて、行平の形見の烏帽子狩衣を取り出しなつかしんだ松風は、これを身につけ、狂乱の心となり、磯辺の松を行平と見て寄り添い、恋愛の舞を舞うが、夜明けとともに波風の音にまぎれて消え失せる。田楽の亀阿弥による原作「汐汲」を、観阿弥および世阿弥が改作したもの(『三道』『五音』『申楽談儀』)

 

『岩波講座 能・狂言 Ⅵ能鑑賞案内』岩波書店 1989