一休禅師 いっきゅうぜんじ・いつきうぜんじ( 1394ー1481) 地獄太夫 じごくたゆう・ぢごくだいふ(生没年不詳)

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一休和尚像 倫紹等賛

いつきうぜんじ(一休禅師)

高僧、五山文学者、名は宗純、字は一休、別に狂雲子とも号した、応永元年正月元日を以て生れた、母は藤原氏、後小松帝に寵愛せられたが娠んだので宮を出で、民間にあつて宗純を生んだといふ、齢六歳で京の安国寺像外鑑に童役となり、十二歳で壬生の清叟仁に謁して教乗を聴き、また建仁寺の慕哲竜樊に詩を学び毎日一首を課せられたといふ、後、西金寺の謙翁に参じ高風を慕つて師事すること六年、翁入寂するや江州堅田の華叟曇和尚の会下に投じたが華叟拒んで容れず、一休即ち漁舟に宿り、或は露地に臥して懇請し、遂に許された、或る夕鶉の鳴くのを聞いて頓悟する処あり、華叟に所見を呈すと、華叟の曰ふ、是れ阿羅漢の境界、作家の境界でないと一休の曰ふ、私は只此の境界を喜ぶので作家分上を喜ばぬと華叟頷て記を授け、また伝来の印書を与へた、宗純之を地に抛つて出で、これから放浪の放に出た、京都の尸陀寺、酬恩庵泉州の慈済寺等はその巡錫の地である、後小松帝御譲位の後、一休を召され常に法要を問ひ寵遇甚だ厚く、称光、後花園二帝相継いでこれを崇信した、初め称光帝、まだ東宮を立て給はず、 一休即ち密に彦仁親皇をすすめ奉る、これ後花園天皇である、かくて一休は三帝の寵を承けた、文明六年大徳寺に入らんことを懇請されたが終に住せず、同十三年十一月二十一日、自ら須弥南畔誰会我禅、虚堂来地、不直半銭と偈を書し瞑目して入寂す、寿八十八。(五山文学小史、日本人名辞書)

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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本朝酔菩提全伝 山東京伝 訳  一陽斎豊国 画  早稲田大学図書館

一休宗純 いっきゅうそうじゅん (1394―1481)

室町中期の臨済宗の僧。宗純は諱で、宗順とも書く。狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。後小松天皇落胤ともいわれ、6歳で京都安国寺の侍童となり、周建とよばれた。17歳で西金寺の謙翁(?―1415)に参学、大徳寺の高僧で、近江堅田に隠栖する華叟宗曇(かそうそうどん)(1352―1428)の弟子となって修行、一休の号を授かった。師の没後は定住することなく各地を雲遊したが、1467年(応仁1)応仁の乱が起こると戦火を避けて山城薪(やましろたきぎ)の酬恩庵(しゅうおんあん)に寓した。応仁の乱が鎮まった1474年(文明6)勅命によって大徳寺の第47代住持となり、荒廃した伽藍の再興に尽くした。文明13年11月21日、酬恩庵で示寂。一休は、当時すでに幕府の御用哲学と化していた五山派の禅の外にあって、ひとり日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文を駆使して禅の本質を芸術性豊かに歌い上げた。また大徳寺開山、大燈国師(宗峰妙超)の法流をさかのぼることによって、中国の南宋禅林に孤高の宗風を振るった虚堂智愚(きどうちぐ)に私淑し、自らその再来と称した。彼は自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなしたが、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であったといえよう。晩年には森侍者(しんじしゃ)(生没年不詳)という盲目の美女を愛し、その愛情を赤裸々に詩文に詠んでいる。しかし、その実人生と文学的虚構の間にはいまなお多くの謎を残している。その徹底した俗心否定と風刺の精神は後世に共感を得、『一休咄』『一休頓智談』などが上梓され、子供にも親しまれるようになった。詩偈(しげ)集『狂雲集』は著名。ほかに『一休法語』や『仏鬼軍』も彼の作とされる。大徳寺真珠庵と酬恩庵に墓があり、ともに自刻等身の木像が安置されている。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)

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一休地獄太夫之話 月岡芳年

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地獄太夫 惺々狂斎

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応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫かいこつの遊戯をゆめに見る図 河鍋暁斎

ぢごくだいふ(地獄太夫

地獄太夫は摂津堺北の荘珠名長者が抱の遊女なり、実に梅津某の女、曽つて如意獄の雪中に賊の為めに捕らはれて妓に賣らる、謂らく斯く憂き川竹に身を沈むるも、畢竟前世の戒行の拙きが故なり、未来も恐らくは地獄に落つべきなり、せめて懺悔の為めにもと、自ら名を地獄と命じ、苛責の罪を今生に免れ、後世の浄土安楽を願はんと、口に風流の唱歌唄ひ、心に仏名を唱ひ、弥陀の救を願ひぬとぞ、年甫めて十九、容姿秀麗、艶名遠く聞ゆ、時に一体和尚会々堺に至るや、地獄之を聞きて一首を送る。「山居せば深山の奥に住めよかし こゝはうき世のさかひ近きに」一休返し、「一体が身をば身ほどに思はねば 市も山家も同じ住家よ」やがて一体その凡俗ならぬを知り来りて見る。「きゝしより見ておそろしき地獄かな」とありしかば、地獄取あへず、「しにくる人の落ちざるはなし」と付けしという、

 

『画題辞典』斎藤隆

 

 

地獄太夫泉州の遊女、堺北の荘高須の町の珠名長者が抱妓で梅津某の子、如意山の雪中に山賊に捕はれて妓に売られた、容姿艶麗年十九でその名教坊に聞えた、一休和尚その地獄といふ名を心憎く思ひ一日酔に乗じてその妓楼に訪ねた、地獄和尚の法衣の襤褸を見て凡僧でないと悟りこれに参禅した、一休これに教ふる処があつたが、地獄また和尚を試みやうとして美姫を聘し酒肴を出して之を饗応した、一休強かに酔つて且つ舞ひ、遂に仆れ臥すに至る、地獄自から看護の労をとり款待至らざるなし、和尚此の時欄に依つて吐したが、吐く処のもの皆池中に入つて魚となつたと、地獄乃ち和尚に地獄極楽の状を問ひ教を得、また禅に参じて悟道を得た、一日病に臥し珠名長者に謂て曰く、死は帰、生けるものは必ず滅す、妾め病癒ゆべからず、唯養育の恩に報い得ぬのを憾む願はくは一休禅師に会つて入滅の度を得たいと、一休偶々地獄の死期を知つて来る、地獄乃ち衣を改め、端座琴を撫し、悟道の曲を奏し終つて瞑目した、その辞世に曰く

我死なば焼くな埋むな野に棄てて飢ゑをる犬の腹を肥せよ。

と、一休命じて四十八日後八木郷久米寺に火葬すと。(大日本人名辞書)

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲