和泉式部 いずみしきぶ・いづみしきぶ(970年代-1027以降 生没年未詳)

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女歌仙 和泉式部 小松軒

世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける(後拾遺)

いづみしきぶ(和泉式部

和泉式部は前越前守大江雅致の女なり、和歌を善くして知らる。和泉守橘道貞に嫁して小式部内侍を生む、其後に至り上東門院に仕え為尊親王と通ず、親王薨後又その弟敦道親王に通じ,更に未だ絶たずして藤原保昌に嫁す、されば節操に於て頗る非議がある。時に播摩書写山に僧性空あり挙世之を崇信す、式部之に和歌を送る、曰く「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき はるかに照らす山のはの月」世その精妙を称す。

 

『画題辞典』斎藤隆

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女房三十六歌仙 和泉式部 鳥文斎栄之

和泉式部 いずみしきぶ

[生]貞元1(976)頃
[没]長元9(1036)頃
平安時代中期の女流歌人。父は大江雅致 ,母は平保衡の娘。父母ともに縁のあった冷泉天皇皇后昌子のもとに早くから出仕したらしい。 20歳前後で和泉守橘道貞と結婚し,小式部内侍を生んだが,冷泉天皇皇子為尊親王と関係し,道貞と離婚。長保4 (1002) 年為尊親王と死別,翌年夏頃からその弟敦道親王と関係が生じた。寛弘4 (07) 年敦道親王とも死別,同6年頃一条天皇中宮彰子に再出仕した。その後藤原保昌と再婚。万寿2 (25) 年小式部内侍に先立たれる不幸もあった。最終詠歌は同4年皇太后妍子追善歌。多感で清新な詠歌は傑出しており,『拾遺集』以下の勅撰集に 250首近く入集し,家集『和泉式部集』がある。『和泉式部日記』は敦道親王との愛情の成立過程を記したもの。和泉式部にまつわる説話,伝説は,民間信仰と結びついて広く各地に分布している。

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 

 

 つぎつぎに恋の遍歴を重ね、敦道親王との関係では世間の非難を浴びた式部は、道長から「うかれ女」といわれたように、奔放な生涯を送った。そのため式部は早くから、紫式部貞淑清少納言の機知、赤染衛門の謙譲に対して、愛情一筋に生きた女の典型と考えられ、艶麗な美女として語られるようになり、平安時代末以降、数々の説話に登場することとなった。道貞と別れたころ、山城の貴布禰社に参籠した式部が、夫が戻るように祈る歌を詠んだところ、貴布禰明神の慰めの歌が聞こえたという説話が『無名抄』『古本説話集』その他にあるが、神をも動かすような歌の作者としての説話は少なくない。また、藤原道綱の子で好色の僧道命阿闍梨が、式部のもとへ通ったという『宇治拾遺物語』の説話をはじめ、式部は種々の恋愛譚に登場する。さらに、小式部内侍に先立たれて悲しみにくれる話は『宝物集』以下多くの説話集に見え、病む小式部が母のために命ながらえたいと祈ったところ、一度は病が治ったという『十訓抄』などの話とともに、母と娘の愛情の話として語られた。無常を感じた式部が書写山性空聖人を訪ねて道心をおこす『古本説話集』の話も、のちに種々の変容をみせている。室町時代以降、式部の名は広く知られ、各地に伝説を残すようになった。御伽草子の『和泉式部』では、道命阿闍梨を式部と橘保昌(二人の夫を合わせた名になっている)の間の子とし、通ってくる僧が幼いときに捨てたわが子であることを知った式部が発心するという話になっている。謡曲には、『貴布禰』『東北』『鳴門』『法華経』をはじめ数々の曲に登場するが、かつて名歌を詠んだ式部が、罪障を懺悔して諸国を行脚するといった趣向のものが多い。

 

『日本架空伝承人名辞典』平凡社 1986

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百人一首之内 和泉式部 国芳

あらざらむこの世のほかの思ひいでに今ひとたびの逢ふこともがな(後拾遺)