出雲の阿国・出雲阿国 いずものおくに・いづものおくに(生没年未詳) 阿国歌舞伎 おくにかぶき 名古屋山三郎 なごやさんざぶろう(?-1603)

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阿国歌舞伎図屏風

今日の歌舞伎のルーツとされるのが、出雲大社の巫女阿国が、慶長8年(1603)に京都北野社の能舞台を代用して行なった勧進興行「かぶき踊り」といわれる。そのようすを描く絵画として、もっとも古く有名な屏風。
 北野社の能舞台上、阿国の代表的な演目「茶屋遊び」が演じられている。男装の阿国演じる「かぶき者」が刀を肩にかけ、その前で、女装の狂言師演じる「茶屋のかか」がなよなよとした風情で坐って扇で顔を隠している。阿国の背後、床机をかつぐ頬かむりの者は、道化役の猿若。三味線無しの謡いで、笛や小鼓・大鼓・太鼓だけの囃子方も初期の様相を伝えるものとされる。

 

Google Arts&Culture 阿国歌舞伎図屏風 京都国立博物館

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阿国歌舞伎図屏風

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洛中洛外図屏風(舟木本) 岩佐又兵衛

いづものおくに(出雲阿国

女歌舞伎の創始者で我が歌舞伎劇の元祖である、初め出雲大社の巫女で父を中村三右衛門と云ふ、生れて容色あり且つ神楽の舞に妙を得、京都に上り将軍足利義輝の営でこれを舞ひ将軍の賞する処となつて屡々召されたといふ、お国の技芸のさまは黒い絹の僧衣に真紅の唐織の長い紐ニ筋をもつて鉦を襟にかけ、それを打ちながら仏号を唱へ無常の世の有様を称名声で歌ひながら踊る、これを『やや子踊』と称へた即ち一種の念仏踊である、慶長の初年名古屋山三郎と知るに至り山三郎はお国の技芸に一新機軸を出さしめ、こゝに我が歌舞伎劇の端緒は開かれた、これよりお国の名愈々高く、或時は結城秀康に召されて之を演じ、慶長八年には宮廷に於ても女御近衛氏がお国歌舞伎を催されたことがあり、慶長十二年には江戸に下り勧進歌舞伎を催したこともある、山三郎の死後お国は老年に及んで生地の出雲の杵築に帰り尼となつて智月尼と号し、生家の傍らに草庵を結び法華経を読誦する外、連歌を楽しみ八十七歳を以て世を去つたといふ、演劇由来記には慶長十八年秋六十七歳で死すとある

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

 

 

歌舞伎の始祖とされる安土桃山時代の女性芸能者。生没年不詳。於国,阿国,国,郡,久仁,おくに,くになど,さまざまに記されている。お国の出自や経歴については,確実な資料がまったくない。巷説では出雲大社の巫女とされているが,地方から京に上った歩き巫女の一人であったとする説や,洛北出雲路河原の時宗鉦打聖の娘との説もある。江戸時代を通してさまざまに伝えられてきたお国伝説の集大成ともいうべき《出雲阿国伝》によれば,お国は出雲国杵築の鍛冶職中村三右衛門の娘で,永禄(1558‐70)のころ出雲大社修覆勧進のために諸国を巡回したところ,容貌美麗で神楽舞に妙を得ていたので評判となり,京に上って歌舞伎踊を考案し,織田信長豊臣秀吉,越前中納言秀康などに召し出されて寵愛されたということになっている。

 

 『世界大百科事典 第二版』平凡社

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阿国歌舞伎草紙 茶屋遊び

www.instagram.com阿国歌舞伎草紙 念仏踊り

なごやさんざぶろう名古屋山三郎

歌舞伎俳優、後に山左衛門といふ説もある、祖先は名古屋の郷士で父庄兵衛に至り秀吉に仕へて番祖となつたが男女十余人の子あり、山三郎はその七男であつた、子福者で活計不如意なため山三郎は京都建仁寺内西来院へ送られ喝食となつた、天正十八年蒲生氏郷、小田原攻の途中沿道堵をなす群衆の中に美貌の山三郎を認め庄兵衛に乞うて小姓とした、同年十一月氏会津に赴くや山三郎亦従つた、偶々名主城攻の軍に従ふ、山三郎時に十五歳天性の美貌で白綾に赤裏付けた具足下に色々縅の鎧を着し猩々緋の陣羽織を被り手槍を提げて城内に駆け入り軍功比なかつたので、当時の俚謡に『槍師々々は多けれど名古屋山三郎は一の槍』と唄はれ、当時関白秀次の小姓不破万作と天下の美色と称された、氏郷の死後その遺財を得て再び京都に帰り風流漁色に日を暮らす中、出雲阿国と知るに及んで、阿国歌舞伎に猿楽を加味せしめ、その技を一新せしめ歌舞伎劇の端緒をなさしめた、慶長九年作州津山に到り城主森忠政に仕ふることゝなつたが津山城構築に際し、同僚井戸宇右衛門と争ひ右衛門のために殺さる。(日本演劇史)

名古屋山三郎は出雲阿国との開係の外に、不破万作と対照され、これを歌舞伎劇に脚色されたものもある、『鞘当』がそれである。山三郎を描いた作も少くない。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

 

 

生年:生年不詳

没年:慶長8.4.10(1603.5.20)

出雲のお国とともに歌舞伎役者の祖に擬されている安土桃山時代の武士。加賀藩因幡守敦順と織田信長の姪の養雲院の子。10代のころ蒲生氏郷の小姓として奥州攻めに従い一番槍の手柄を立てて,流行の小唄に歌われた。氏郷没後浪人となり,その後妹の縁で仕官した美作で,同僚と刃傷事件を起こして死んだ。当時流行したかぶき者の典型で,お国がかぶき者の姿をして舞台に立った時期が山三郎の没したころに当たり,そこから両者が結びついて,お国の夫,愛人などという逸話が,後世生まれたようである。しかし史料的にはまったく確認できず,山三郎と歌舞伎成立の結び付きは伝説上のことであろう。没年月日には慶長5(1600)年5月3日説もある。

 

 『朝日日本歴史人名辞典』朝日新聞出版

 

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國女歌舞妓繪詞

 本書の梗概を辿ると、出雲大社の社人が、その娘の国にかぶきおどりを習わして都へのぼり、花の北野神社でかぶきの踊を始めた。最初に念仏踊をすると、その念仏の声にひかれて名古屋の亡霊が、「我も昔の御身の友」即ちお国の旧友と云う形で現れ、お国に自分を思い出させると共に、「ふしぎの喧華」をして早世した無念を述べうさ晴しに昔歌った歌を歌う。「あただうき世は」から「そなたおもへば」の歌までがそれである。次にめづらしきかぶきとして浄瑠璃もどきという歌を歌う。「わが恋は」と「世の中の人とちぎらば」の長い二つの歌がそれであり、やがてかぶきの時もすぎて名残を惜しみつつ、歌えや舞えやと再び「おかへりあるか」「こはた山路」「まくら八千夜も」の歌を歌うのである。ここで筋は終り、最後に跋文の如きものがあり、本地物式に、お国を神格化してこれを出雲大社の権現とし、衆生の悪を払うためにこのようなかぶきの一ふしを現し給うたものであると結んでいる。

 

國女歌舞妓繪詞 詞書及び解説 京都大学附属図書館