飲中八仙 いんちゅうはっせん・いんちゆうはつせん 杜甫・杜子美 とほ・としび(712-770)

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中八仙図屏風 海北友松

唐の杜甫『飲中八仙歌』にちなむ主題。現状、酒豪(酒仙)は4人だが、あと4人を描いた右隻があったのだろう。
 少ない筆数で身体を表わす中国南宋の梁楷の「減筆体(げんぴつたい)」にならう海北友松(1533~1615)独特の人物描法は、後世「袋人物」と愛称されることになる。その好例であり、はつらつとした動きがあって画面に快活なリズムを刻む墨描、張りのある豊かなフォルム、酒仙たちの顔の表情の描き分け、さらに松や岩の丸みを帯びた柔らかな形体、濃淡を効かせた水墨描がすばらしい。
 左端の款記「此画図之事任御好染形也因幡鹿野之館可有翫見御消息一入振肘畢慶長七年陽月哉明江北海北友松書之」から、この屏風は、慶長7年(1602)10月3日、因幡国鹿野の城主である亀井茲矩(1557~1612)の依頼によって制作したものであることが判明する。友松の作品には、制作年が判明するものは極めて少ない。その点、この屏風は、制作年の判明する基準的な作例として貴重な遺品といえる。

 

 Google Arts&Culture 飲中八仙図屏風 海北友松

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漢人物 絵事比肩 鳥山石燕

 いんちゆうはつせん(飲中八仙

支那唐時代に於ける雅人にして酒を愛するもの八人を称す、曰く

賀知章、汝陽王、李適之、崔宗之、蘇晋、李太白、張旭、焦遂

で、杜甫に『飲中八仙歌』がある。

   

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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中八仙図屏風

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中八仙図 谷文晁

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中八仙図 長沢芦雪

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中八仙歌  杜甫

 

知章乗馬似乗船   知章の馬に騎るは船に乗るに似たり

眼花落井水底眠   眼花(めくら)み井に落ちて水底に眠る

『賀知章が酔って馬に乗る様子はまるで船に心地よく揺られているかのようであり、目がちらついて井戸に落ちても気にせず水の中で眠ってしまう。』

賀知章(659-744)。会稽の人。分断の重鎮であり、政治家としても高位に昇った。川が多い江南地方出身の賀知章は船に乗り慣れているので、ここでは乗馬の様子を乗船になぞらえた。

 

汝陽三斗始朝天   汝陽は三斗にして始めて天に朝し

道逢麹車口流涎   道に麹車(きくしゃ)に逢えば口より涎を流し

恨不移封向酒泉   封を移して酒泉に向かわざるを恨む

『汝陽王の李璡(りしん)は三斗の酒を飲んでからやっと朝廷に参内し、道すがら麹を積んだ車に出くわすと口からよだれを垂らしては、領地を酒泉に遷してもらえないのを残念がっている。』

李璡(?−750)。皇族で玄宗皇帝の甥。汝陽の王に封ぜられた。

 

左相日興費万銭   左相は日々興に万銭を費やし

飲如長鯨吸百川   飲むこと長鯨の百川を吸うがごとし

銜杯楽聖称避賢   杯を銜(ふく)みて聖を楽しみ賢を避くと称す

『左丞相の李適之は酔って心地よくなるために毎日一万銭ものお金を使い、巨大な鯨があらゆる川の水を吸い込むように酒を飲んで、杯を口にしながら「聖なる清酒はたしなむけれど賢なる濁酒は遠慮したい」などといっている。』

李適之(694-747)。天宝元年(742)に左丞相となったが、天宝五載(746)に李林甫に陥れられて辞任に追いこまれ、左遷先で死を賜った。酒を一斗飲んでも乱れないほどの酒豪で、夜ごとに宴会を開いたという(『旧唐書』「李適之伝」)。

「聖」と「賢」は清酒と濁酒をそれぞれ指す隠語。

 

宗之瀟灑美少年   宗之は瀟灑(しょうしゃ)たる美少年

挙觴白眼望青天   觴(さかずき)を挙げ白眼もて青天を望み

皎如玉樹臨風前   皎(きょう)として玉樹の風前に臨むが如し

『崔宗之は垢抜けた美青年であり、酒杯をかかげては白目をむいて青空を眺め、酔っぱらったその様子は輝いて風に揺られる玉の樹のようだ』

崔宗之(生没年未詳)。玄宗の即位に功労のあった崔日用の子で、李白と親交があった。

 

蘇晋長斎繍仏前   蘇晋は長斎す繍仏の前

酔中往往愛逃禅   酔中往々にして逃禅を愛す

『蘇晋は仏像の刺繍の前で長い期間にわたって精進しているが、しばしば酔っぱらって禅の戒律に背いてばかりいる。』

蘇晋は玄宗の治世前期の政治家。若年より文才にも恵まれていた。開元二十二年(734)没。

 

李白一斗詩百篇   李白は一斗にして詩は百篇

長安市上酒家眠   長安の市上酒家に眠る

天子呼来不上船   天子呼び来たるも船に上らず

自称臣是酒中仙   自ら称す臣は是れ酒中の仙なりと

李白は一斗の酒を飲み干すうちに詩が百篇できるほどの才を持ち、長安の盛り場にある酒屋で眠りこけている。陛下に召し出されても一人で舟に乗ることすらできず、「私めは酒びたりの仙人でございます」などと自分で名乗っている』

李白(701-762)。盛唐の詩人。賀知章は李白を「謫仙人(地上に追放された仙人)」と呼んでその才能を高く評価した。

 

張旭三杯草聖伝   張旭は三杯にして草聖と伝えられ

脱帽露頂王公前   帽を脱ぎて頂を露す王公の前

揮毫落紙如雲煙   毫(ふで)を揮(ふる)いて紙に落せば雲煙の如し

『張旭は酒を三杯もひっかけると「草聖」と評判になるような草書を書き上げ、王公貴人の前でも平気で頭巾をとって頭のてっぺんをむき出しにする。毛筆を揮って紙に下ろすとたちまち字が雲や霞のように浮かび上がる。』

張旭(生没年未詳)。盛唐の書家。草書を得意とした。草聖は草書の達人に対する美称。頭巾を脱いで頭のてっぺんを露出させるのは礼法に反した行為。張旭は酒に酔うたびに毛筆を揮って大声で叫び、頭を墨に浸して髪で書した(『唐国史補』)。

 

焦遂五斗方卓然   焦遂は五斗にして方(はじ)めて卓然たり

高談雌弁驚四筵   高談雌弁は四筵(しえん)を驚かす

『焦遂は五斗の酒を飲むとようやく飛び抜けた才能がほとばしり、堂々たる議論と力強い弁舌によって満座の人々を圧倒する。』

焦遂(しょうすい)は盛唐の人物。詳しい事跡は不明。唐の袁郊『甘沢謡』によると、杜甫の友人孟雲卿と親交があった。

 

 

杜甫全詩訳注(一)』下定雅弘・松原朗 編  講談社 2016

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杜甫騎驢図賛 一休宗純

としび(杜子美)

杜子美、名は甫、唐代の大詩人なり、杜牧を少社というに対して老社と称せらる、初め進士に試みられて及第せず、貧に迫りしも作る所の賦によりて玄宗皇帝の知る所となり、集賢院侍制に挙げらる、安祿山の乱には賊の為めに檎はれしも、節を挺して汗るゝなし、其後再び粛宗皇帝に謁し、次いで復辞して諸方に周遊す、資性豪放、流離の間に節を守り、述懐、哀王孫、北征の諸篇を作りて、忠愛の情を披瀝す、其詩態実に沈痛を極めて古今獨歩の妙境に入る、李白と交情密にして世に二詩聖と並称せらる、年五十九、大酔して卒す、其風雅沈痛の生涯は好画材として屡々画かるゝ所にして騎驢の図、酔歩の図多し

 

『画題辞典』斎藤隆

 

 

杜甫 とほ

[生]先天1(712)[没]大暦5(770)

中国,盛唐の詩人。襄陽 (河南省) の人。字,子美。号,少陵。先祖に晋の学者杜預がおり,祖父は初唐の詩人杜審言。初め科挙に失敗し,江南を遍歴して李白,高適 (こうせき) と交わった。やがて長安に出て仕官を望んだがごく低い身分にとどまり,安禄山の乱に際しての忠誠を賞せられて左拾遺を授けられた。しかし翌年華州に左遷され,そこで飢饉にあって官を捨て蜀の成都へ落ちのびた。成都では節度使厳武から検校工部員外郎の官を与えられ,浣花渓のほとりに草堂を構え,やや落ち着いた生活をおくったが,帰郷を志して成都を離れ,揚子江を下って舟旅を続ける途中,長沙付近で舟中に没した。唐代のみならず,中国最大の詩人として李白と並んで「李杜」と称され,詩聖と呼ばれ,また,その詩はそのまますぐれた歴史であるとして「詩史」といわれる。代表作『北征』『三吏三別』『兵車行』など。 

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/Du_Fu.jpg

晩笑堂竹荘畫傳