腕の喜三郎 うでのきさぶろう・うでのきさぶらう(生没年未詳)

www.instagram.com

国芳もやう正札附現金男 腕喜三郎 一勇斎国芳

www.instagram.com

勇烈血気伝 腕の喜三郎 錦朝楼芳虎

www.instagram.com

当世好男子伝 松 任好豊国

九紋竜支進に比すのざらし語助 三代目市川市蔵

花和尚魯智深に比す朝比奈藤兵衛 初代中村福助

行者武松に比腕の喜三郎 初代河原崎権十郎

www.instagram.com

近世奇跡考 腕の喜三郎 山東京伝

腕の喜三郎 うでのきさぶろう

江戸時代初期の侠客。生没年未詳。

 山東京伝の『近世奇跡考』には、「(榎本)其角云ふ。中古、野出の喜三郎といふ者、片腕をきられ、骨に皮引きかかりて見ぐるしかりしを、鋸にて肘のほどより引ききりて捨てたり。桑門(僧侶)となりて片枝と号すと。『五元集』鶏合の巻に見ゆ。案ずるに、寛文中の侠者(おとこだて)、腕の喜三郎といひしは、これならん」とある。

 別説によると本姓は野出喜三郎。寛永十九年(1642)の生まれで、寛文中(1661~73)に江戸で侠名高い男伊達であった。あるとき、神田柳原の柳稲荷の近くで吉弥組の者と喧嘩になり、その場で、数人を斬りたおしたが自分も二の腕を斬られ、片方の腕は地につくまでにぶらりと下がっていた。家に帰ってから、人に頼んで鋸で片腕を切断してもらった。見ていた者はその豪胆さに舌をまき、それ以来誰いうともなく腕の喜三郎と異名した。のち事情があって江戸を去り、田舎ぐらしをしていたが、年老いて再び江戸に戻り頭を丸めて片枝(片志とも)と称した。諸国行脚のあと麻布宮村町本光寺の境内に住みつき、正徳五年(1715)十二月、七十四歳で亡くなったという。 

 

『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/image/PB/arc/Books/shiBK/shiBK03-0021/shiBK03-0021_15.jpg

侠客銘々伝 松亭金水

ARC所蔵 shiBK03-0021_15

腕の喜三郎
この人剛勇にして義気逞し一時止事を得ずして闘諍に及びしが其の腕を斫れたり日来経て疵は癒たれど其癒口見苦かりけりれば子分に分付て再びこれを斫直すに顔色泰然としてさらに動ぜずかの関羽が鏃を抜きさるの事と粗似たり

www.instagram.com

慈江戸小腕達引 芳幾

www.instagram.com

慈江戸小腕達引 国周

腕ノ喜三郎 市川小団次(四代目)喜三郎妻小礒 尾上菊次郎(二代目)

幻源太 市村羽左衛門」(十三代目)紅裡甚三 沢村訥升(二代目)

前髪佐吉 坂東三津五郎(六代目)剣の長蔵 市川九蔵(三代目)

慈江戸小腕達引 ここがえどこうでのたてひき

歌舞伎脚本。世話物。三幕四場。河竹黙阿弥作。通称「腕の喜三郎」。文久三年(1863)八月江戸市村座初演。巷説に伝わる寛文ごろの江戸の男達腕(おとこだて)の喜三郎の事跡を、講談をもとに脚色したものだが、ほとんど創作といってよい。

(中略)

〔序幕〕数寄屋河岸の人入れ稼業喜三郎の子分曙源太が、神崎甚内の道場をのぞいて批評したことから、甚内の門弟頭大島逸平に額を割られる。知らせで駆けつけた喜三郎はわびを入れるが、逸平に勝負を迫られる。やむを得ず相手となって逸平を打ちこもうとしたとき、甚内があらわれて喜三郎を打ちすえる。喜三郎はもと甚内の門弟で真影流の奥義まで伝授されたが、甚内の女中お磯と通じたことから師弟の縁を切られていた。旧師の道場とも知らずに来たことを述べ、勘気の放免を願うが、喧嘩稼業の侠客ゆえ許されない。逸平は甚内の娘お照に思いをよせていたが、お照と二見重三郎が密通しているので不義をいいたてる。甚内はやむなくお照を手討ちにするところを、喜三郎の命ごいでお照と重三郎は勘当され、喜三郎にかくまわれる。

〔二幕〕殿の懇望で甚内が献上した真影流奥義一巻が何者かに盗まれる。喜三郎は以後喧嘩をしない誓いに右腕を断ち切ったので、女房お磯とともに勘当をゆるされ、奥義の秘書左剣の一巻を譲られる。逸平は喜三郎が喧嘩をしない誓をたてたと聞いて、喜三郎を散々に打擲する。お磯弟源太は自らの喧嘩がもとと感じ、心にもない愛想づかしをして兄弟の縁を切り、逸平に仕返しをしようとするが、喜三郎にみすかされる。お照は自分のために喜三郎が難儀するのに耐えかね、重三郎とともに逃げ出すが、途中で逸平一味にさらわれる。これを知らされた喜三郎は、後事を子分紅絹裏甚三に頼み、死の覚悟で跡を追う。

〔三幕〕逸平の一味はお照を深川の別荘へ送らせ、花木橋で喜三郎らを待ちうける。源太・幻長吉・喜三郎らは相ついで駆けつけ、逸平は喜三郎と渡り合ううち懐から真影流奥義の一巻を落す。喜三郎はこれを拾い、逸平を切り倒す。奥義を甚内に届けさせた喜三郎は自害しようとするが、甚内が駆けつけ自害をとめる。お照も途中で助けられ重三郎とともに勘当を許され、夫婦となって神崎の家督をつぐ

 

『総合日本戯曲事典』平凡社 1964