梅 うめ 羅浮仙 らふせん 鶯宿梅 おうしゅくばい・あうしゆくばい 紀内侍 きのないし
夜の梅 鈴木春信
花づくし 闇夜梅 鈴木春信
月影ハそれとも見へすかすむ夜の袖もさやかに匂ふ梅が香
夜の梅を見る男女 鈴木春信
花づくし 梅 鈴木春信
いろ香にも心染しと思ふ身の袖にあやなき梅の下風
つくはねのみねよりおつるみなの川恋そつもりて淵と成ぬる
臥龍梅の前に煙草のもらい火 鈴木春信
梅の枝折り 鈴木春信
軒先で梅の花を見る二人の女 鈴木春信
梅の木で鳴く鶯を眺める美人 鈴木春信
うめ(梅)
梅は桜や桃と同じく、薔薇科に属する落葉性の喬木で、その大さは高さ五間に達するものがあり、古木では幹廻一丈内外のものがある、樹齢は九百年千年と呼ぶものがあるが、先づ平均三百年を限度とする。
花は白色五弁を普通とし、早春の候開き馥郁たる香気を放ち、その品種には重弁もあり、単弁もあり、色は白色の外、紅色、淡紅色のものもある、紅色のものを紅梅といふこと今更いふまでもない、
葉は卵形で鋸歯を刻み六月頃円形の実を結ぶ、果実は初め青色であるが熟すれば黄色となる、幹は肌疎にして細かい裂目があり、枝は新しいものはすく/\と伸び、古い枝には刺状の小枝があり老木となれば、樹身空洞となり地を這ふ特性がある。
百花の魁として寒風霜雪を冒し、清楚な花を開き芳烈な香気を発するので、日本に於ても支那に於ても、古くから人々に愛玩され、此の花に風懐を寄せた詩歌文章の如き枚挙に遑もなく、絵画に現はれたもの、これを画題としたものも極めて多い、品種は約百二三十種に上る、支那の原産で古く日本に渡来したのであるが、その渡来年月の如き詳かでない
『東洋画題綜覧』金井紫雲
羅浮仙人図 森寛斎
羅浮僊女 吉川霊華
月百姿 月明林下美人来 月岡芳年
五百家註柳先生集 唐 柳宗元
欽定四庫全書 四庫全書・文淵閣
柳先生龍城録巻上 趙師雄酔憩梅花下
らふせん(羅浮仙)
隋の開皇年中、趙師雄、羅浮山に遊ぶ、一日天甚だ寒く、肌も裂かれるやうなのに、師雄たまりかねて、何時も行く林間の一旗亭に入らんとした、日は既に暮れて薄衣のやうな夕の靄はほんのりと四囲を罩めた、師雄不図あたりを見ると、窈窕たる一佳人が立つてゐる薄化粧も美しく、身に軽い羅をまとひ、懇ろに師雄を招く、言葉づかひもしとやかに芳ばしい香があたりに漂ふ、師雄は導かるゝまゝに旗亭に入り、互に酒を酌み交し四方山の話を交へてゐると、緑衣の一童子が現はれ歌ひ且つ舞ふ、師雄は盃を重ねる中に、強か酩酊し、そのまゝ酔伏してしまつた、やがて東方漸く白み来り暁風冷かに身に迫るに目覚めてあたりを見れば、美人の姿はなく身は林中の梅樹のもとにあり、花は微白を呈して有明の月影に浮動するのであつた、美人は此の梅の精であつたのである。(柳宗元―竜城録)
羅浮山は支那広東省恵州府にあり、二峰から成り一を羅山といひ一を浮山と称ふ、山中梅の名所であり、幽洞奇峰に富む幽邃の地とて晋から隋唐の間世を避けてここに留まるものも多かつた、山に延祥南楼等の古刹もある。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
『梅花』 高啓
瓊姿只合在瑶台 瓊姿只合に瑶台に在るべし
誰向江南處處栽 誰か江南に向って處處に栽えたる
雪満山中高士臥 雪滿ちて山中高士臥し
月明林下美人来 月明らかにして林下美人來る
寒依疏影蕭蕭竹 寒は依る疎影蕭蕭の竹
春掩残香漠漠苔 春は掩う殘香漠漠の苔
自去何郎無好詠 何郎去って自好詠無し
東風愁寂幾回開 東風愁寂幾回か開く
- 玉のように美しい姿は仙人の住む高殿がふさわしいのに
- 誰が江南のあちこちに植えたのだろうか
- 雪満ちた山中では高潔な人格者が寝ているよう
- また月の夜には林の下に美人が来たかのよう
- 寒い頃は花の少ない枝が寂しそうな竹に寄り添い
- 春には残り香が広がった苔を掩うほど漂う
- 何遜が去ってから梅を詠じた良い詩はなく
- 春風のたびに幾度寂しく咲いてきたことか
浮世十二ヶ月 二月 鶯宿梅 尾形月耕
鶯宿梅 窪俊満
雪月花 山城 鶯宿梅 楊洲周延
あうしゆくばい(鶯宿梅)
紀貫之の娘が、大内に梅を召され鶯のために一首の和歌を詠じて奉つたといふ、出処は『大鏡』第八である。
天暦の御時に清涼殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、もとめさせ給ひしに、なにがしのぬしのくらうどにていまそかりしとき、うけ給はりてわかきものどもは、え見しらじ、きんぢもとめよとの給ひしかば、ひと京まかりありきしかども侍らざりしに、西の京のそこ/\なる家に、色こくさきたる木のやうだい、うつくしきが侍りしを、ほりとりしかば、家あるじの木にこれゆひつけてまゐれといはせたまひしかば、あるやうこそはと、もてまゐりて候ひしを、なにぞとて御らんじければ女の手にてかきて侍りける。
勅なればいともかしこし鶯のやどはととはゞいかにこたへむ
『東洋画題綜覧』金井紫雲
紀内侍(きのないし) 平安時代中期の歌人。
紀貫之(つらゆき)の娘。「紀氏系図」に助内侍,内侍とあることから,この呼び名がある。「大鏡」「十訓抄」などでは,「拾遺和歌集」所収の「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」の作者としている。デジタル版 日本人名大辞典+Plus
都林泉名勝図会 相国寺林光院 鶯宿梅
林光院の鶯宿梅
応永二十五年(1418年)正月、足利三代将軍義満(相国寺開基)は、二十五歳で早世した第二子の義嗣(林光院殿亜相孝山大居士)の菩提を弔うために、夢窓国師を勧請開山として、京都二条西の京の紀貫之邸の址地に林光院を開創した。以後、林光院境内樹木として、この「鶯宿梅」は寺と消長を共にすることになったのである。
林光院のその後の二度にわたる移転の度毎に「鶯宿梅」も又移植されねばならぬ運命を担い、霜雪一千有余年、その幹は幾回か枯死したが、歴代の住職の努力によって、接ぎ木から接ぎ木へと、現代に至るまで名木の面目を維持して来たのである。