箒木・帚木 ははきぎ・はゝきぎ【源氏物語 第二帖】
源氏物語画帖 帚木 土佐派
(第一章 雨夜の品定めの物語 第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる)
木枯に吹きあはすめる笛の音を ひきとどむべき言の葉ぞなき
(第二章 女性体験談 第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語))
源氏物語絵詞 帚木 土佐光信
身の憂さを嘆くにあかで明くる夜はとり重ねてぞ音もなかれける
ことと明くなれば障子口まで送りたまふ
(第三章 空蝉の物語 第三段 空蝉の寝所に忍び込む)
はゝきぎ(箒木)
源氏物語第二巻なり、「帚木の心もしらでその原の道にあやなくまどひつるかな」などいふ歌の贈答あるよりとれるものなり、源氏十七歳の折りの事を書けり、此の巻に「雨夜の品定」又「雨夜の物語」と称する記事あり。五月雨の頃桐壺に宿直して、源氏、頭中府(源氏嫡妻葵ノ上兄)等婦人の品定めを論じ合へり、是れ作者紫式部の婦人観にして有名のものなり、後に源氏の見知りし夕顔に此の時頭中将の物語りし女なり、次の夜源氏家人紀伊守の中川の家に方違して空蝉(伊予守後妻紀伊守維母)を見染め小君(空蝉弟十二三才)をして艶書を送りなどせしも、空蝉更にうけがはざれば「箒木の伝々」しなどの賠答歌あり。
信濃の園原にあって、遠くからはあるように見え、近づくと消えてしまうという、ほうきに似た伝説上の木。転じて、情があるように見えて実のないこと、また、姿は見えるのに会えないことなどのたとえ
園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな
古今六帖五 坂上是則
源氏物語図屏風 帚木 土佐光起
(第三章 空蝉の物語 第三段 空蝉の寝所に忍び込む)
源氏物語五十四帳 箒木 広重
源氏香の図 箒木 国貞改豊国
げんじ五十四まいのうち 第二番 げんじ箒木 西村重長
数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木
源氏物語 帚木
第一章 雨夜の品定めの物語
第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将
五月雨 がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐壺も平生より静かな気のする時に、灯 を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を取り出した置き棚 にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻 の内容を頭中将 は見たがった。
「無難なのを少しは見せてもいい。見苦しいのがありますから」
と源氏は言っていた。
源氏物語 帚木
第二章 女性体験談
第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)
この女というのは、自身にできぬものでも、この人のためにはと努力してかかるのです。教養の足りなさも自身でつとめて補って、恥のないようにと心がけるたちで、どんなにも行き届いた世話をしてくれまして、私の
機嫌 をそこねまいとする心から勝ち気もあまり表面に出さなくなり、私だけには柔順な女になって、醜い容貌 なんぞも私にきらわれまいとして化粧に骨を折りますし、この顔で他人に逢 っては、良人 の不名誉になると思っては、遠慮して来客にも近づきませんし、とにかく賢妻にできていましたから、同棲 しているうちに利巧 さに心が引かれてもいきましたが、ただ一つの嫉妬 癖、それだけは彼女自身すらどうすることもできない厄介 なものでした。当時私はこう思ったのです。とにかくみじめなほど私に参っている女なんだから、懲らすような仕打ちに出ておどして嫉妬 を改造してやろう、もうその嫉妬ぶりに堪えられない、いやでならないという態度に出たら、これほど自分を愛している女なら、うまく自分の計画は成功するだろうと、そんな気で、ある時にわざと冷酷に出まして、例のとおり女がおこり出している時、『こんなあさましいことを言うあなたなら、どんな深い縁で結ばれた夫婦の中でも私は別れる決心をする。この関係を破壊してよいのなら、今のような邪推でも何でももっとするがいい。将来まで夫婦でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないようにして、そして嫉妬のない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけだ』などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主張をしたものですね。女は少し笑って、『あなたの貧弱な時代を我慢して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、それは待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思いません。あなたの多情さを辛抱 して、よい良人になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをお言いになることになったのは別れる時になったわけです』そう口惜 しそうに言ってこちらを憤慨させるのです。女も自制のできない性質で、私の手を引き寄せて一本の指にかみついてしまいました。私は『痛い痛い』とたいそうに言って、『こんな傷までもつけられた私は社会へ出られない。あなたに侮辱された小役人はそんなことではいよいよ人並みに上がってゆくことはできない。私は坊主にでもなることにするだろう』などとおどして、『じゃあこれがいよいよ別れだ』と言って、指を痛そうに曲げてその家を出て来たのです。
源氏物語 帚木
第二章 女性体験談
第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)
十一月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗りました。私はその晩は父の
大納言 の家へ行って泊まろうと思っていたのです。途中でその人が、『今夜私を待っている女の家があって、そこへちょっと寄って行ってやらないでは気が済みませんから』と言うのです。私の女の家は道筋に当たっているのですが、こわれた土塀 から池が見えて、庭に月のさしているのを見ると、私も寄って行ってやっていいという気になって、その男の降りた所で私も降りたものです。その男のはいって行くのはすなわち私の行こうとしている家なのです。初めから今日の約束があったのでしょう。男は夢中のようで、のぼせ上がったふうで、門から近い廊 の室の縁側に腰を掛けて、気どったふうに月を見上げているんですね。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉 がたくさん降ってくるのですから、身にしむように思うのも無理はないのです。男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に『飛鳥井 に宿りはすべし蔭 もよし』などと歌うと、中ではいい音のする倭琴 をきれいに弾 いて合わせるのです。相当なものなんですね。律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾 の中から聞こえるのもはなやかな気のするものですから、明るい月夜にはしっくり合っています。男はたいへんおもしろがって、琴を弾いている所の前へ行って、『紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はありませんね。あなたの恋人はなかなか冷淡なようですね』などといやがらせを言っています。菊を折って行って、『琴の音も菊もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける。だめですね』などと言ってまた『いい聞き手のおいでになった時にはもっとうんと弾いてお聞かせなさい』こんな嫌味 なことを言うと、女は作り声をして『こがらしに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなき』などと言ってふざけ合っているのです。私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、今度は十三絃 を派手 に弾き出しました。才女でないことはありませんがきざな気がしました。遊戯的の恋愛をしている時は、宮中の女房たちとおもしろおかしく交際していて、それだけでいいのですが、時々にもせよ愛人として通って行く女がそんなふうではおもしろくないと思いまして、その晩のことを口実にして別れましたがね。
源氏物語 帚木
第二章 女性体験談
第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語)
「私もばか者の話を一つしよう」
中将は前置きをして語り出した。
「私がひそかに情人にした女というのは、見捨てずに置かれる程度のものでね、長い関係になろうとも思わずにかかった人だったのですが、馴 れていくとよい所ができて心が惹 かれていった。たまにしか行かないのだけれど、とにかく女も私を信頼するようになった。愛しておれば恨めしさの起こるわけのこちらの態度だがと、自分のことだけれど気のとがめる時があっても、その女は何も言わない。久しく間を置いて逢 っても始終来る人といるようにするので、気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。父親もない人だったから、私だけに頼らなければと思っている様子が何かの場合に見えて可憐 な女でした。こんなふうに穏やかなものだから、久しく訪 ねて行かなかった時分に、ひどいことを私の妻の家のほうから、ちょうどまたそのほうへも出入りする女の知人を介して言わせたのです。私はあとで聞いたことなんだ。そんなかわいそうなことがあったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く行きもしないでいると、女はずいぶん心細がって、私との間に小さな子なんかもあったもんですから、煩悶 した結果、撫子 の花を使いに持たせてよこしましたよ」
中将は涙ぐんでいた。
「どんな手紙」
と源氏が聞いた。
「なに、平凡なものですよ。『山がつの垣 は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露』ってね。私はそれで行く気になって、行って見ると、例のとおり穏やかなものなんですが、少し物思いのある顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、そのころの虫の声と同じような力のないふうでいるのが、なんだか小説のようでしたよ。『咲きまじる花は何 れとわかねどもなほ常夏 にしくものぞなき』子供のことは言わずに、まず母親の機嫌 を取ったのですよ。『打ち払ふ袖 も露けき常夏に嵐 吹き添ふ秋も来にけり』こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨むふうもありません。うっかり涙をこぼしても恥ずかしそうに紛らしてしまうのです。恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしかったから、私は安心して帰って来て、またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまったのです。
源氏物語 帚木
第二章 女性体験談
第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)
「どんな話をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。まだ
文章生 時代のことですが、私はある賢女の良人 になりました。さっきの左馬頭 のお話のように、役所の仕事の相談相手にもなりますし、私の処世の方法なんかについても役だつことを教えていてくれました。学問などはちょっとした博士 などは恥ずかしいほどのもので、私なんかは学問のことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでした。それはある博士の家へ弟子 になって通っておりました時分に、先生に娘がおおぜいあることを聞いていたものですから、ちょっとした機会をとらえて接近してしまったのです。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出して白楽天の結婚の詩などを歌ってくれましたが、実は私はあまり気が進みませんでした。ただ先生への遠慮でその関係はつながっておりました。先方では私をたいへんに愛して、よく世話をしまして、夜分寝 んでいる時にも、私に学問のつくような話をしたり、官吏としての心得方などを言ってくれたりいたすのです。手紙は皆きれいな字の漢文です。仮名 なんか一字だって混じっておりません。よい文章などをよこされるものですから別れかねて通っていたのでございます。今でも師匠の恩というようなものをその女に感じますが、そんな細君を持つのは、学問の浅い人間や、まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだとその当時思っておりました。またお二方のようなえらい貴公子方にはそんなずうずうしい先生細君なんかの必要はございません。私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、気に入っておればそれでいいのですし、前生の縁というものもありますから、男から言えばあるがままの女でいいのでございます」
これで式部丞 が口をつぐもうとしたのを見て、頭中将は今の話の続きをさせようとして、
「とてもおもしろい女じゃないか」
と言うと、その気持ちがわかっていながら式部丞は、自身をばかにしたふうで話す。
「そういたしまして、その女の所へずっと長く参らないでいました時分に、その近辺に用のございましたついでに、寄って見ますと、平生の居間の中へは入れないのです。物越しに席を作ってすわらせます。嫌味 を言おうと思っているのか、ばかばかしい、そんなことでもすれば別れるのにいい機会がとらえられるというものだと私は思っていましたが、賢女ですもの、軽々しく嫉妬 などをするものではありません。人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしやしません。しかも高い声で言うのです。『月来 、風病 重きに堪えかね極熱 の草薬を服しました。それで私はくさいのでようお目にかかりません。物越しででも何か御用があれば承りましょう』ってもっともらしいのです。ばかばかしくて返辞ができるものですか、私はただ『承知いたしました』と言って帰ろうとしました。でも物足らず思ったのですか『このにおいのなくなるころ、お立ち寄りください』とまた大きな声で言いますから、返辞をしないで来るのは気の毒ですが、ぐずぐずもしていられません。なぜかというと草薬の蒜 なるものの臭気がいっぱいなんですから、私は逃げて出る方角を考えながら、『ささがにの振舞 ひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなき。何の口実なんだか』と言うか言わないうちに走って来ますと、あとから人を追いかけさせて返歌をくれました。『逢 ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か眩 ゆからまし』というのです。歌などは早くできる女なんでございます」
式部丞の話はしずしずと終わった。
源氏物語 帚木
第三章 空蝉の物語
第二段 紀伊守邸への方違へ
源氏は
微行 で移りたかったので、まもなく出かけるのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。あまりに急だと言って紀伊守がこぼすのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿 の東向きの座敷を掃除 させて主人へ提供させ、そこに宿泊の仕度 ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝 ってできた住宅である。わざと田舎 の家らしい柴垣 が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできていた。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍 がたくさん飛んでいた。源氏の従者たちは渡殿 の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を三つに分けたその中 の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。思い上がった娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西に続いた部屋で女の衣摺 れが聞こえ、若々しい、媚 めかしい声で、しかもさすがに声をひそめてものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。初めその前の縁の格子 が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸がおろされてしまったので、その室の灯影 が、襖子 の隙間 から赤くこちらへさしていた。
源氏物語 帚木
第三章 空蝉の物語
第三段 空蝉の寝所に忍び込む
鶏 の声がしてきた。家従たちも起きて、
「寝坊をしたものだ。早くお車の用意をせい」
そんな命令も下していた。
「女の家へ方違 えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもないじゃありませんか」
と言っているのは紀伊守であった。
源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった。
「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」
泣いている源氏が非常に艶 に見えた。何度も鶏 が鳴いた。つれなさを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん
あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。女は己 を省みると、不似合いという晴がましさを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととすることができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人 のいる伊予の国が思われて、こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。身の憂 さを歎 くにあかで明くる夜はとり重ねても音 ぞ泣かれける
源氏物語 帚木
第三章 空蝉の物語
第四段 それから数日後
源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、
見し夢を逢 ふ夜ありやと歎 く間に目さへあはでぞ頃 も経にける安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。