明石 あかし【源氏物語 第十三帖】
源氏物語画帖 明石 土佐派
(第三章 明石の君の物語 第二段 明石の君を初めて訪ねる)
源氏物語絵色紙帖 明石 詞飛鳥井雅胤 土佐光吉
人の上もわが御身のありさまも思し出でられて夢の心地したまふままにかき鳴らしたまへる声も心すごく聞こゆ古人は涙もとどめあへず岡辺に琵琶 箏の琴取りにやりて入道琵琶の法師になりていとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり
(第二章 明石の君の物語 第五段 源氏、入道と琴を合奏)
明石 土佐光信
秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる雲居を翔れ時の間も見む
(第三章 明石の君の物語 第二段 明石の君を初めて訪ねる)
源氏物語画帖
源氏物語画帖 明石
あかし【明石】
海浜は須磨とともに風光明媚をもって知られ、古来「明石潟」「明石の浦」「明石の泊とまり」「明石の浜」「明石の湊みなと」などと歌に詠まれた。⦅歌枕⦆ 「ほのぼのと-の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ/古今 羇旅」
源氏物語の巻名。第一三帖。明石入道のもとに身を寄せた光源氏は、入道の娘と結ばれるが、召還の宣旨せんじを受けて、帰洛する。
源氏香の図 明石 豊国
(第三章 明石の君の物語 第二段 明石の君を初めて訪ねる)
風流けんし明石 豊国・広重
浮世源氏八景 明石秋月 鳥文斎栄之
第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語
第二段 光る源氏の祈り
源氏は心を静めて、自分にはこの寂しい海辺で命を落とさねばならぬ
罪業 はないわけであると自信するのであるが、ともかくも異常である天候のためにはいろいろの幣帛 を神にささげて祈るほかがなかった。
「住吉 の神、この付近の悪天候をお鎮 めください。真実垂跡 の神でおいでになるのでしたら慈悲そのものであなたはいらっしゃるはずですから」
と源氏は言って多くの大願を立てた。惟光 や良清 らは、自身たちの命はともかくも源氏のような人が未曾有 な不幸に終わってしまうことが大きな悲しみであることから、気を引き立てて、少し人心地 のする者は皆命に代えて源氏を救おうと一所懸命になった。彼らは声を合わせて仏神に祈るのであった。
「帝王の深宮に育ちたまい、もろもろの歓楽に驕 りたまいしが、絶大の愛を心に持ちたまい、慈悲をあまねく日本国じゅうに垂 れたまい、不幸なる者を救いたまえること数を知らず、今何の報いにて風波の牲 となりたまわん。この理を明らかにさせたまえ。罪なくして罪に当たり、官位を剥奪 され、家を離れ、故郷を捨て、朝暮歎きに沈淪 したもう。今またかかる悲しみを見て命の尽きなんとするは何事によるか、前生の報いか、この世の犯しか、神、仏、明らかにましまさばこの憂 いを息 めたまえ」
住吉 の御社 のほうへ向いてこう叫ぶ人々はさまざまの願を立てた。また竜王 をはじめ大海の諸神にも源氏は願を立てた。いよいよ雷鳴ははげしくとどろいて源氏の居間に続いた廊へ落雷した。火が燃え上がって廊は焼けていく。人々は心も肝 も皆失ったようになっていた。後ろのほうの廚 その他に使っている建物のほうへ源氏を移転させ、上下の者が皆いっしょにいて泣く声は一つの大きな音響を作って雷鳴にも劣らないのである。空は墨を磨 ったように黒くなって日も暮れた。
第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語
第四段 明石入道の迎えの舟
源氏は夢も現実も静かでなく、何かの暗示らしい点の多かったことを思って、世間の
譏 りなどばかりを気にかけ神の冥助 にそむくことをすれば、またこれ以上の苦しみを見る日が来るであろう、人間を怒らせることすら結果は相当に恐ろしいのである、気の進まぬことも自分より年長者であったり、上の地位にいる人の言葉には随 うべきである。退いて咎 なしと昔の賢人も言った、あくまで謙遜 であるべきである。もう自分は生命 の危 いほどの目を幾つも見せられた、臆病 であったと言われることを不名誉だと考える必要もない。夢の中でも父帝は住吉 の神のことを仰せられたのであるから、疑うことは一つも残っていないと思って、源氏は明石へ居を移す決心をして、入道へ返辞を伝えさせた。
「知るべのない所へ来まして、いろいろな災厄 にあっていましても、京のほうからは見舞いを言い送ってくれる者もありませんから、ただ大空の月日だけを昔馴染 のものと思ってながめているのですが、今日船を私のために寄せてくだすってありがたく思います。明石には私の隠栖 に適した場所があるでしょうか」
入道は申し入れの受けられたことを非常によろこんで、恐縮の意を表してきた。ともかく夜が明けきらぬうちに船へお乗りになるがよいということになって、例の四、五人だけが源氏を護 って乗船した。入道の話のような清い涼しい風が吹いて来て、船は飛ぶように明石へ着いた。それはほんの短い時間のことであったが不思議な海上の気であった。
第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
第六段 入道の問わず語り
夜がふけて浜の風が涼しくなった。落ちようとする月が明るくなって、また静かな時に、入道は過去から現在までの身の上話をしだした。明石へ来たころに苦労のあったこと、出家を遂げた経路などを語る。娘のことも問わず語りにする。源氏はおかしくもあるが、さすがに身にしむ
節 もあるのであった。
「申し上げにくいことではございますが、あなた様が思いがけなくこの土地へ、仮にもせよ移っておいでになることになりましたのは、もしかいたしますと、長年の間老いた法師がお祈りいたしております神や仏が憐 みを一家におかけくださいまして、それでしばらくこの僻地 へあなた様がおいでになったのではないかと思われます。その理由は住吉の神をお頼み申すことになりまして十八年になるのでございます。女の子の小さい時から私は特別なお願いを起こしまして、毎年の春秋に子供を住吉へ参詣 させることにいたしております。また昼夜に六回の仏前のお勤めをいたしますのにも自分の極楽往生はさしおいて私はただこの子によい配偶者を与えたまえと祈っております。私自身は前生の因縁が悪くて、こんな地方人に成り下がっておりましても、親は大臣にもなった人でございます。自分はこの地位に甘んじていましても子はまたこれに準じたほどの者にしかなれませんでは、孫、曾孫 の末は何になることであろうと悲しんでおりましたが、この娘は小さい時から親に希望を持たせてくれました。どうかして京の貴人に娶 っていただきたいと思います心から、私どもと同じ階級の者の間に反感を買い、敵を作りましたし、つらい目にもあわされましたが、私はそんなことを何とも思っておりません。命のある限りは微力でも親が保護をしよう、結婚をさせないままで親が死ねば海へでも身を投げてしまえと私は遺言がしてございます」
などと書き尽くせないほどのことを泣く泣く言うのであった。源氏も涙ぐみながら聞いていた。
「冤罪 のために、思いも寄らぬ国へ漂泊 って来ていますことを、前生に犯したどんな罪によってであるかとわからなく思っておりましたが、今晩のお話で考え合わせますと、深い因縁によってのことだったとはじめて気がつかれます。なぜ明瞭にわかっておいでになったあなたが早く言ってくださらなかったのでしょう。京を出ました時から私はもう無常の世が悲しくて、信仰のこと以外には何も思わずに時を送っていましたが、いつかそれが習慣になって、若い男らしい望みも何もなくなっておりました。今お話のようなお嬢さんのいられるということだけは聞いていましたが、罪人にされている私を不吉にお思いになるだろうと思いまして希望もかけなかったのですが、それではお許しくださるのですね、心細い独 り住みの心が慰められることでしょう」
などと源氏の言ってくれるのを入道は非常に喜んでいた。「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのうら寂しさを
私はまた長い間口へ出してお願いすることができませんで悶々 としておりました」
こう言うのに身は慄 わせているが、さすがに上品なところはあった。
「寂しいと言ってもあなたはもう法師生活に慣れていらっしゃるのですから」
それから、旅衣うら悲しさにあかしかね草の枕 は夢も結ばず
戯談 まじりに言う、源氏にはまた平生入道の知らない愛嬌 が見えた。入道はなおいろいろと娘について言っていたが、読者はうるさいであろうから省いておく。まちがって書けばいっそう非常識な入道に見えるであろうから。
第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
第八段 都の天変地異
この年は日本に天変地異ともいうべきことがいくつも現われてきた。三月十三日の雷雨の
烈 しかった夜、帝 の御夢に先帝が清涼殿の階段 の所へお立ちになって、非常に御機嫌 の悪い顔つきでおにらみになったので、帝がかしこまっておいでになると、先帝からはいろいろの仰せがあった。それは多く源氏のことが申されたらしい。おさめになったあとで帝は恐ろしく思召 した。また御子として、他界におわしましてなお御心労を負わせられることが堪えられないことであると悲しく思召した。
第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語
第二段 明石の君を初めて訪ねる
入道はそっと婚姻の吉日を暦で調べさせて、まだ心の決まらないように言っている妻を無視して、
弟子 にも言わずに自身でいろいろと仕度 をしていた。そうして娘のいる家の設備を美しく整えた。十三日の月がはなやかに上ったころに、ただ「あたら夜の」(月と花とを同じくば心知られん人に見せばや)とだけ書いた迎えの手紙を浜の館 の源氏の所へ持たせてやった。風流がりな男であると思いながら源氏は直衣 をきれいに着かえて、夜がふけてから出かけた。よい車も用意されてあったが、目だたせぬために馬で行くのである。惟光 などばかりの一人二人の供をつれただけである。山手の家はやや遠く離れていた。途中の入り江の月夜の景色 が美しい。紫の女王 が源氏の心に恋しかった。この馬に乗ったままで京へ行ってしまいたい気がした。秋の夜の月毛の駒 よ我が恋ふる雲井に駈 けれ時の間も見ん
と独言 が出た。
第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語
第五段 残された明石の君の嘆き
妻と
乳母 とが口々に入道を批難した。
「お嬢様を御幸福な方にしてお見上げしたいと、どんなに長い間祈って来たことでしょう。いよいよそれが実現されますことかと存じておりましたのに、お気の毒な御経験をあそばすことになったのでございますね。最初の御結婚で」
こう言って歎 く人たちもかわいそうに思われて、そんなこと、こんなことで入道の心は前よりずっとぼけていった。昼は終日寝ているかと思うと、夜は起き出して行く。
「数珠 の置き所も知れなくしてしまった」
と両手を擦 り合わせて絶望的な歎息 をしているのであった。弟子 たちに批難されては月夜に出て御堂 の行道 をするが池に落ちてしまう。風流に作った庭の岩角 に腰をおろしそこねて怪我 をした時には、その痛みのある間だけ煩悶 をせずにいた