関屋 せきや【源氏物語 第十六帖】
源氏物語画帖 関屋 土佐派
(第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語 第二段 源氏、石山寺参詣)
ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる
(第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語 第二段 源氏、石山寺参詣)
源氏物語画帖
せきや(関屋)
源氏物語の一巻なり、光源氏の君、石山寺参詣とて京を出で関山にかゝリしに、此処に空蝉と聞えし人の男伊勢の介というが、是まで常陸の国司にて有りしを交替して都に上る途なりというに会ひ玉ふ、空蝉はかねて源氏が思をかけたりし女なり、されば今感慨の無量なるものありしや空蝉が弟にして傍近く召遣いし小君を召して、「わくらわに行逢ふ道をたのみしも尚ほ甲斐なしや塩ならぬ海行とへとせきとめかたき泪をや絶えぬ清水と人は見るらん」と遊にされしとなり、源氏は石山へ、伊勢之助空蝉は京へと分れぬ、
おうさかのせき 逢坂の関
滋賀県大津市南方、逢坂山にあった関所。山は近江国と山城国とにまたがるが、この関自体は近江国に属する。大化二年(六四六)頃の設置といわれ、愛発(あらち)関に代わって三関の一つとなる。東海道、東山道の京都への入り口にあたる要所として知られた。蝉丸が住んだという蝉丸神社がある。東関。合坂関。逢坂。 ※古今(905‐914)離別・三七四「相坂の関しまさしき物ならばあかずわかるるきみをとどめよ〈難波万雄〉」 [語誌]「逢坂」の地名を契機として別離や邂逅の感懐が詠まれることが多いが、「逢ふ」の語が掛け詞として使われ、「思やる心はつねにかよへども相坂の関こえずもある哉〈三統公忠〉」〔後撰‐恋一・五一七〕のように、この関を越えることが、男女の結ばれる意としても用いられるようになる。
源氏物語絵巻 関屋
関屋澪標図屏風 俵屋宗達
源氏物語図屏風 土佐光吉
関屋図屏風 俵屋宗達
第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語
第三段 逢坂の関での再会
九月の三十日であったから、山の
紅葉 は濃く淡 く紅を重ねた間に、霜枯れの草の黄が混じって見渡される逢坂山の関の口から、またさっと一度に出て来た襖姿 の侍たちの旅装の厚織物やくくり染めなどは一種の美をなしていた。源氏の車は簾 がおろされていた。今は右衛門佐 になっている昔の小君 を近くへ呼んで、
「今日こうして関迎えをした私を姉さんは無関心にも見まいね」
などと言った。心のうちにはいろいろな思いが浮かんで来て、恋しい人と直接言葉がかわしたかった源氏であるが、人目の多い場所ではどうしようもないことであった。女も悲しかった。昔が昨日のように思われて、煩悶 もそれに続いた煩悶がされた。行くと来 とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水 と人は見るらん
自分のこの心持ちはお知りにならないであろうと思うとはかなまれた。