絵合 えあわせ・ゑあわせ【源氏物語 第十七帖】
源氏物語画帖 絵合 土佐派
(第三章 後宮の物語 第二段 三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ )
絵合 土佐光信
在五中将の名をばえ朽たさじとのたまはせて宮
みるめこそうらふりぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をや沈めむ
(第二章 後宮の物語 中宮の御前の物語絵合せ 第五段 「伊勢物語」対「正三位」)
内大臣権中納言参りたまふその日帥宮も参りたまへりいとよしありておはするうちに絵を好みたまへば大臣の下にすすめたまへるやうやあらむことことしき召しにはあらで殿上におはするを仰せ言ありて御前に参りたまふ
(第三章 後宮の物語 第二段 三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ )
ゑあわせ(絵合)
絵合は貴族の遊戯なり、人数を左右に分ち、雙方より絵巻を出して其優劣を争うて楽しみとするなり、判者あり勝負を附す。藤原時代の公卿女房の間に行われたるものなり、後世には武家にてもてはやしたりと見えて、吾妻鏡などにも見えたり。源氏物語に「絵合」の巻あり、冷泉院の帝の御時、爾生の十日、清凍殿に於て弘徽殿の姫君と梅壺の姫君と、互に古の物語今の世の珍らかなること名高く故ある限りを撰び、画かしめたるを取出てゝ争ひしに、梅壷の方へは源氏の君より須磨明石のさすらえのうきを美しく絵にせしめしを持出てしめし給ひしかば、之にて梅壺の方の勝となりぬという。
中古の物合わせの一種。左右の二組に分かれて判者を定め、互いに持ち寄った絵を出し合い、その優劣を競う遊戯。絵に和歌を添えて出し「歌絵合わせ」の形をとるものが多かった。※伊勢大輔集(11C中)「麗京殿女御のひめ宮の、おほむゑ合に、鶴」
源氏物語図屏風
源氏物語図
源氏物語図
第二段 源氏、朱雀院の心中を思いやる
少年でいらせられる帝の
女御 におさせすることは、女王の心に不満足なことであるかもしれないなどと思いやりのありすぎることまでも考えてみると、源氏は胸が騒いでならなかったが、今日になって中止のできることでもなかったから儀式その他についての注意を言い置いて、親しい修理大夫参議 である人にすべてを委託して源氏は六条邸を出て御所へ参った。養父として一切を源氏が世話していることにしては院へ済まないという遠慮から、単に好意のある態度を取っているというふうを示していた。
第二段 三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ
定められた絵合わせの日になると、それはいくぶんにわかなことではあったが、おもしろく意匠をした風流な包みになって、左右の絵が会場へ持ち出された。女官たちの控え座敷に臨時の玉座が作られて、北側、南側と分かれて判者が座についた。それは
清涼殿 のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味方をしてすわっていた。左の紫檀 の箱に蘇枋 の木の飾り台、敷き物は紫地の唐錦 、帛紗 は赤紫の唐錦である。六人の侍童の姿は朱色の服の上に桜襲 の汗袗 、袙 は紅の裏に藤襲 の厚織物で、からだのとりなしがきわめて優美である。右は沈の木の箱に浅香 の下机 、帛紗は青地の高麗錦 、机の脚 の組み紐 の飾りがはなやかであった。侍童らは青色に柳の色の汗袗 、山吹襲 の袙 を着ていた。双方の侍童がこの絵の箱を御前に据 えたのである。源氏の内大臣と権中納言とが御前へ出た。