胡蝶 こちょう・こてふ【源氏物語 第二十四帖 玉鬘十帖の第三】
源氏物語画帖 胡蝶 土佐派
(第一章 光る源氏の物語 第五段 紫の上と中宮和歌を贈答)
胡蝶 土佐光信
亀の上の山も尋ねじ舟のうちに老いせぬ名をばここに残さむ
春の日のうららにさしてゆく舟は棹のしづくも花ぞ散りける
(第一章 光る源氏の物語 第一段 三月二十日頃の春の町の船楽)
春の上の御心ざしに仏に花たてまつらせたまふ鳥蝶に装束き分けたる童べ八人容貌などことに整へさせたまひて鳥には銀の花瓶に桜をさし蝶は金の瓶に山吹を同じき花の房いかめしう世になき匂ひを尽くさせたまへり南の御前の山際より漕ぎ出でて御前に出づるほど風吹きて瓶の桜すこしうち散りまがふいとうららかに晴れて霞の間より立ち出でたるはいとあはれになまめきて見ゆ
(第一章 光る源氏の物語 第四段 中宮、春の季の御読経主催す)
胡蝶 土佐光吉
鴬のうららかなる音に鳥の楽はなやかに聞きわたされて池の水鳥もそこはかとなくさへづりわたるに急になり果つるほど飽かずおもしろし蝶はましてはかなきさまに飛び立ちて山吹の籬のもとに咲きこぼれたる花の蔭に舞ひ出づる
(第一章 光る源氏の物語 第五段 紫の上と中宮和歌を贈答)
源氏物語図屏風 胡蝶 土佐光吉
こてふ(胡蝶)
胡蝶は源氏物語の一巻なり。六条の御息所の姫君なる梅壺の女御、当時の習わしとて、六条院にて仁王経大般若読経の大法会行ひ王ふ。紫の上も仏に花奉るとて、梅壺中宮の方へ童を鳥蝶の姿に作らしめ、八人ほど出立たす。鳥には白銀の瓶に桜の花、蝶には黄金の瓶に山吹の花さして花園に参らすとなり。
雅楽の曲名。蝶・花持舞ともいう。右方の高麗壱越調の小曲。四人舞で童舞専用の曲。青袍・袴・腰帯・脛巾に厚紙製の極彩色の蝶羽、童髪に山吹の挿頭花の天冠、右手に造花山吹をもつ。
『総合日本戯曲事典』平凡社 1964
源氏物語画帖
源氏物語図屏風 胡蝶 土佐光貞
能楽図絵 胡蝶 月岡耕漁
胡蝶
複式夢幻能。観世小次郎作。吉野の僧(ワキ)が花の都を見物に上京し、一条大宮のあたりに来ると由緒ありげな古宮があって、その御階の下の梅が今を盛りと美しく咲いているので立ち寄ってながめていた。そこへ人気のない軒端から一人の女性(前ジテ)が現れたので、不審に思い尋ねたところ、実は自分は胡蝶の精で、春・夏・秋と草木の花から花にたわむれる身であるが、ただ早春の梅花にだけ縁のないのが悲しくお僧の法華経読誦により成仏したいといい、荘子が夢に胡蝶となった故事や、光源氏の胡蝶の舞の舟遊びのことなどを語り、お僧の夢にふたたび会おうといって夕暮の空に夢のように消えうせた。僧は花の木陰に仮寝をしていると、その夢に胡蝶の精(後ジテ)が現われて、法華妙典の功力により梅花に縁を得たことを喜び、花に飛びかう胡蝶の舞を舞ってみせ、やがて春の夜の明けゆく空に霞にまぎれて去っていった。
『総合日本戯曲事典』平凡社 1964
第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経
第一段 三月二十日頃の春の町の船楽
三月の
二十日 過ぎ、六条院の春の御殿の庭は平生にもまして多くの花が咲き、多くさえずる小鳥が来て、春はここにばかり好意を見せていると思われるほどの自然の美に満たされていた。築山 の木立ち、池の中島のほとり、広く青み渡った苔 の色などを、ただ遠く見ているだけでは飽き足らぬものがあろうと思われる若い女房たちのために、源氏は、前から造らせてあった唐風の船へ急に装飾などをさせて池へ浮かべることにした。船下 ろしの最初の日は御所の雅楽寮の伶人 を呼んで、船楽を奏させた。親王がた高官たちの多くが参会された。このごろ中宮は御所から帰っておいでになった。去年の秋「心から春待つ園」の挑戦 的な歌をお送りになったお返しをするのに適した時期であると紫の女王 も思うし、源氏もそう考えたが、尊貴なお身の上では、ちょっとこちらへ招待申し上げて花見をおさせするというようなことが不可能であるから、何にも興味を持つ年齢の若い宮の女房を船に乗せて、西東続いた南庭の池の間に中島の岬 の小山が隔てになっているのを漕 ぎ回らせて来るのであった。東の釣殿 へはこちらの若い女房が集められてあった。竜頭鷁首 の船はすっかり唐風に装われてあって、梶取 り、棹取 りの童侍 は髪を耳の上でみずらに結わせて、これも支那 風の小童に仕立ててあった。大きい池の中心へ船が出て行った時に、女房たちは外国の旅をしている気がして、こんな経験のかつてない人たちであるから非常におもしろく思った。中島の入り江になった所へ船を差し寄せて眺望 をするのであったが、ちょっとした岩の形なども皆絵の中の物のようであった。あちらにもそちらにも霞 と同化したような花の木の梢 が錦 を引き渡していて、御殿のほうははるばると見渡され、そちらの岸には枝をたれて柳が立ち、ことに派手 に咲いた花の木が並んでいた。よそでは盛りの少し過ぎた桜もここばかりは真盛 りの美しさがあった。廊を廻った藤 も船が近づくにしたがって鮮明な紫になっていく。池に影を映した山吹 もまた盛りに咲き乱れているのである。水鳥の雌雄の組みが幾つも遊んでいて、あるものは細い枝などをくわえて低く飛び交 ったりしていた。鴛鴦 が波の綾 の目に紋を描いている。写生しておきたい気のする風景ばかりが次々に目の前へ現われてくるのであったから、仙人 の遊戯を見ているうちに斧 の木の柄が朽ちた話と同じような恍惚 状態になって女房たちは長い時間水上にいた。風吹けば浪 の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎
春の池や井手の河瀬 に通ふらん岸の山吹底も匂 へり亀 の上の山も訪 ねじ船の中に老いせぬ名をばここに残さん
春の日のうららにさして行く船は竿 の雫 も花と散りける
こんな歌などを各自が詠 んで、行く先をも帰る所をも忘れるほど若い人たちのおもしろがって遊ぶのに適した水の上であった。
第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経
第四段 中宮、春の季の御読経主催す
第五段 紫の上と中宮和歌を贈答
春の
女王 の好意で、仏前へ花が供せられるのであったが、それはことに美しい子が選ばれた童女八人に、蝶 と鳥を形どった服装をさせ、鳥は銀の花瓶 に桜のさしたのを持たせ、蝶には金の花瓶に山吹をさしたのを持たせてあった。桜も山吹も並み並みでなくすぐれた花房 のものがそろえられてあった。南の御殿の山ぎわの所から、船が中宮の御殿の前へ来るころに、微風が出て瓶の桜が少し水の上へ散っていた。うららかに晴れたその霞の中から、この花の使者を乗せた船の出て来た形は艶 であった。天幕をこちらの庭へ移すことはせずに、左へ出た廊を楽舎のようにして、腰掛けを並べて楽は吹奏されていたのである。童女たちは階梯 の下へ行って花を差し上げた。香炉を持って仏事の席を練っていた公達 がそれを取り次いで仏前へ供えた。紫の女王の手紙は子息の源中将が持って来た。花園の胡蝶 をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらん
というのである。中宮はあの紅葉 に対しての歌であると微笑して見ておいでになった。昨日 招かれて行った女房たちも春をおけなしになることはできますまいと、すっかり春に降参して言っていた。うららかな鶯 の声と鳥の楽が混じり、池の水鳥も自由に場所を変えてさえずる時に、吹奏楽が終わりの急な破 になったのがおもしろかった。蝶 ははかないふうに飛び交 って、山吹が垣 の下に咲きこぼれている中へ舞って入る。中宮の亮 をはじめとしてお手伝いの殿上役人が手に手に宮の纏頭 を持って童女へ賜わった。鳥には桜の色の細長、蝶へは山吹襲 をお出しになったのである。偶然ではあったがかねて用意もされていたほど適当な賜物 であった。伶人 への物は白の一襲 、あるいは巻き絹などと差があった。中将へは藤 の細長を添えた女の装束をお贈りになった。中宮のお返事は、昨日は泣き出したくなりますほどうらやましく思われました。こてふにも誘はれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば
というのであった。