若菜(下) わかな【源氏物語 第三十五帖】
源氏物語画帖 若菜(下) 土佐派
(第一章 柏木の物語 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る)
源氏物語画帖 若菜(下)
(第一章 柏木の物語 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る)
源氏物語絵色紙帖 若菜下 詞中院通村 土佐光吉
端近く寄り臥したまへるに来てねうねうといとらうたげに鳴けばかき撫でてうたてもすすむかなとほほ笑まる
恋ひわぶる人のかたみと手ならせば なれよ何とて鳴く音なるらむ
(第一章 柏木の物語 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る)
若菜(下) 土佐光信
消え止まるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを
とのたまふ
(第九章 女三の宮の物語 第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す )
わかな(若菜)
『源氏物語』五十四帖の一で上下に分けられ上は源氏四十歳のこと、下は四十一歳から四十七歳までの事を記し、五十四帖中での長篇である、従つてさま/゙\の事件が含まれてゐるのであるが、中心は矢張髭黒の大将の北の方となつた玉鬘の内侍が二人の若君をもうけ目出度く栄える中に、正月二十三日子の日に六条院へ参る条である。
今日の子の日こそ猶うれたけれ、しばしは老を忘れても侍るべきをと聞えたまふ、かんの君もいとよくねびまさり、ものものしきけさへ添ひて、見るかひあるさまし給へり。
若葉さすのべの小松をひきつれてもとの岩根をいのる今日かな
と、せめておとなび聞え給ふ、沈の折敷四つして御若菜さまばかりまゐれり、御土器取り給ひて
小松原すゑのよはひにひかれてや野べのわかなも年をつむべき
下巻では源氏の住吉詣でが骨子となる、明石の中宮春宮の若君を儲け、五歳にして春宮となりて栄える、これも住吉の神の恵みと源氏は紫の上、明石の上、母の尼など伴つて住吉へ詣でる。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
女三の宮 鈴木春信
夕闇は道たどたどし月待ちて帰れ我が背子その間にも見む (古今六帖・第一帖-371)
第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後
第一段 六条院の競射
三月 の終わる日には高官も若い殿上役人たちも皆六条院へ参った。気不精になっている衛門督はこのことを皆といっしょにするのもおっくうなのであったが、恋しい方のおいでになる所の花でも見れば気の慰みになるかもしれぬと思って出て行った。賭弓 の競技が御所で二月にありそうでなかった上に、三月は帝 の母后の御忌月 でだめであるのを残念がっている人たちは、六条院で弓の遊びが催されることを聞き伝えて例のように集まって来た。左右の大将は院の御養女の婿であり、御子息であったから列席するのがむろんで、そのために左右の近衛府 の中将に競技の参加者が多くなり、小弓という定めであったが、大弓の巧者な人も来ていたために、呼び出されてそれらの手合わせもあった。殿上役人でも弓の芸のできる者は皆左右に分かれて勝ちを争いながら夕べに至った。春が終わる日の霞 の下にあわただしく吹く夕風に桜の散りかう庭がだれの心をも引き立てて、大将たちをはじめ、すでに酔っている高官たちが、
「奥のかたがたからお出しになった懸賞品が皆平凡な品でないのを、技術の専門家にだけ取らせてしまうのはよろしくない。少し純真な下手者 も競争にはいりましょう」
などと言って庭へ下 りた。
第二章 光る源氏の物語 住吉参詣
第七段 終夜、神楽を奏す
第八段 明石一族の幸い
一行は終夜を歌舞に明かしたのである。
二十日 の月の明りではるかに白く海が見え渡り、霜が厚く置いて松原の昨日とは変わった色にも寒さが感じられて、快く身にしむ社前の朝ぼらけであった。自邸での遊びには馴 れていても、あまり外の見物に出ることを好まなかった紫の女王は京の外の旅もはじめての経験であったし、すべてのことが興味深く思われた。住の江の松に夜深く置く霜は神の懸 けたる木綿 かづらかも
紫夫人の作である。小野篁 の「比良 の山さへ」と歌った雪の朝を思って見ると、奉った祭りを神が嘉納 された証 の霜とも思われて頼もしいのであった。
女御 、神人 の手に取り持たる榊葉 に木綿 かけ添ふる深き夜の霜
中務 の君、祝子 が木綿 うち紛ひ置く霜は実 にいちじるき神のしるしか
そのほかの人々からも多くの歌は詠 まれたが、書いておく必要がないと思って筆者は省いた。こんな場合の歌は文学者らしくしている男の人たちの作も、平生よりできの悪いのが普通で、松の千歳 から解放されて心の琴線に触れるようなものはないからである。
朝の光がさし上るころにいよいよ霜は深くなって、夜通し飲んだ酒のために神楽 の面のようになった自身の顔も知らずに、もう篝火 も消えかかっている社前で、まだ万歳万歳と榊 を振って祝い合っている。この祝福は必ず院の御一族の上に形となって現われるであろうとますますはなばなしく未来が想像されるのであった。非常におもしろくて千夜の時のあれと望まれた一夜がむぞうさに明けていったのを見て、若い人たちは渚 の帰る波のようにここを去らねばならぬことを残念がった。
第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽
第四段 女四人による合奏
かき合わせが済んでいよいよ合奏になったが、どれもおもしろく思われた中に、
琵琶 はすぐれた名手であることが思われ、神さびた撥 使いで澄み切った音をたてていた。大将は和琴に特別な関心を持っていたが、それはなつかしい、柔らかな、愛嬌 のある爪音 で、逆にかく時の音が珍しくはなやかで、大家のもったいらしくして弾くのに少しも劣らない派手 な音は、和琴にもこうした弾き方があるかと大将の心は驚かされた。深く精進を積んだ跡がよく現われたことによって院は安心をあそばされて夫人をうれしくお思いになった。十三絃の琴は他の楽器の音の合い間合い間に繊細な響きをもたらすのが特色であって、女御の爪音 はその中にもきわめて美しく艶 に聞こえた。琴は他に比べては洗練の足らぬ芸と思われたが、お若い稽古 盛りの年ごろの方であったから、確かな弾き方はされて、ほかの楽器と交響する音もよくて、上達されたものであると大将も思った。この人が拍子を取って歌を歌った。院も時々扇を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。少し無技巧的におなりになったようである。大将も美音の人で、夜のふけてゆくにしたがって音楽三昧 の境地が作られていった。
第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語
第四段 小侍従、柏木を導き入れる
第五段 柏木、女三の宮をかき抱く
これは四月十幾日のことである。明日は
賀茂 の斎院の御禊 のある日で、御姉妹 の斎院のために儀装車に乗せてお出しになる十二人の女房があって、その選にあたった若い女房とか、童女とかが、縫い物をしたり、化粧をしたりしている一方では、自身らどうしで明日の見物に出ようとする者もあって、仕度 に大騒ぎをしていて、宮のお居間のほうにいる女房の少ない時で、おそばにいるはずの按察使 の君も時々通って来る源中将が無理に部屋のほうへ呼び寄せたので、この小侍従だけがお付きしているのであった。よいおりであると思って、静かに小侍従はお帳台の中の東の端へ衛門督の席を作ってやった。これは乱暴な計らいである。宮は何心もなく寝ておいでになったのであるが、男が近づいて来た気配 をお感じになって、院がおいでになったのかとお思いになると、その男はかしこまった様子を見せて、帳台の床の上から宮を下へ抱きおろそうとしたから、夢の中でものに襲われているのかとお思いになって、しいてその者を見ようとあそばすと、それは男であるが院とは違った男であった。これまで聞いたこともおありにならぬような話を、その男はくどくどと語った。宮は気味悪くお思いになって、女房をお呼びになったが、お居間にはだれもいなかったからお声を聞きつけて寄って来る者もない。宮はお慄 い出しになって、水のような冷たい汗もお身体 に流しておいでになる。失心したようなこの姿が非常に御可憐 であった。
第八章 紫の上の物語 死と蘇生
第一段 紫の上、絶命す
第二段 六条御息所の死霊出現
院はたとえようもない悲しみをお覚えになった。
「しかしこれは物怪 の所業だろうと思われる。あまりに取り乱して泣くものでない」
と院は泣く女房たちを制して、またまた幾つかの大願をお立てになった。そしてすぐれた修験の僧をお集めになり、
「これが定 まった命数でも、しばらくその期をゆるめていただきたい、不動尊は人の終わりにしばらく命を返す約束を衆生にしてくだすった。それに自分たちはおすがりする。それだけの命なりとも夫人にお授けください」
こう僧たちは言って、頭から黒煙を立てると言われるとおりの熱誠をこめて祈っていた。院も互いにただ一目だけ見合わす瞬間が与えられたい、最後の時に見合わせることのできなかった残念さ悲しさから長く救われたいと言ってお歎 きになる御様子を見ては、とうていこの夫人のあとにお生き残りになることはむずかしかろうと思われて、そのことをまた人々の歎くことも想像するにかたくない。
この院の夫人への大きな愛が御仏 を動かしたのか、これまで少しも現われてこなかった物怪が、小さい子供に憑 って来て、大声を出し始めたのと同時に夫人の呼吸 は通ってきた。院はうれしくも思召され、また不安でならぬようにも思召された。物怪は僧たちにおさえられながら言う、
「皆ここから遠慮をするがよい。院お一人のお耳へ申し上げたいことがある。私の霊を長く法力で苦しめておいでになったのが無情な恨めしいことですから、懲らしめを見せようと思いましたが、さすがに御自身の命も危険なことになるまで悲しまれるのを見ては、今こそ私は物怪であっても、昔の恋が残っているために出て来る私なのですから、あなたの悲しみは見過ごせないで姿を現わしました。私は姿など見せたくなかったのだけれど」
と物怪は叫んだ。髪を顔に振りかけて泣く様子は、昔一度御覧になった覚えのある物怪であった。その当時と同じ無気味さがお心に湧 いてくるのも恐ろしい前兆のようにお思われになって、その子供の手を院はお捉 えになって、前へおすわらせになり、あさましい姿はできるだけ人に見させまいとお努めになった。
「ほんとうにその人なのか。悪い狐 などが故人を傷つけるためにでたらめを言ってくることがあるから、確かなことを言うがいい。他人の知らぬことで私にだけ合点のゆくことを何か言ってみるがいい。そうすれば少しは信じてもいい」
院がこうお言いになると、物怪はほろほろと涙を流しながら、悲しそうに泣いた。「わが身こそあらぬさまなれそれながら空おぼれする君は君なり
恨めしい、恨めしい」
と泣き叫びながらもさすがに羞恥 を見せるふうが昔の物怪に違う所もなかった。嘘 でないことからかえってうとましい気がよけいにして情けなくお思われになるので、ものを多く言わすまいと院はされた。
第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見
第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す
池は涼しそうで
蓮 の花が多く咲き、蓮葉は青々として露がきらきら玉のように光っているのを、院が、
「あれを御覧なさい。自分だけが爽快がっている露のようじゃありませんか」
とお言いになるので、夫人は起き上がって、さらに庭を見た。こんな姿を見ることが珍しくて、
「こうしてあなたを見ることのできるのは夢のようだ。悲しくて私自身さえも今死ぬかと思われた時が何度となくあったのだから」
と、院が目に涙を浮かべてお言いになるのを聞くと、夫人も身にしむように思われて、消え留まるほどやは経 べきたまさかに蓮 の露のかかるばかりを
と言った。契りおかんこの世ならでも蓮の葉に玉ゐる露の心隔つな
これは院のお歌である。
第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引
第六段 源氏、柏木と対面す
それはまだ他の高官などの集まって来ない時分であった。これまでのようにお座敷の
御簾 の中へ衛門督をお入れになって、院御自身はまた一つの御簾を隔てた奥のお居間においでになった。噂 のとおりに非常に痩せて顔色が悪かった。平生もはなやかな派手 な美しさは弟たちのほうに多くて、この人は深く落ち着いた静かな風采 によさのあった人であるが、今日はことにおとなしい身のとりなしで侍している姿を、内親王の配偶者として見ても相応らしい男であるが、その関係の正しくないのが不快だ、憎悪 を覚えずにはおられないのであると院は思召したが、さりげなくしておいでになった。
「機会がなくてあなたにも長く逢 いませんでしたね。長く病人の介抱をしていて何の余裕もなくてね、前からここへ来ておいでになる宮が、院の賀に法事をして差し上げたいと言っておられたのが、いろいろな故障で滞っていてね、今年も暮れになったので、これ以上延ばすこともできず、以前に計画したとおりのことはととのわないが、形だけでも精進のお祝い膳 を差し上げる運びになって、賀宴などというとたいそうだが、親戚 の子供たちの数がたくさんにもなっているのだから、それだけでも御覧に入れようと思って舞の稽古 などをさせ始めたものだから、せめてそれだけでもうまくゆくようにと思って、拍子が合うか試してみるのですが、指導をしていただくのに、だれがよいかともよく考える間がなくてあなたに御面倒を見てもらうのがよいときめて、長くおいでもなかったお恨みも捨てたわけですよ」
とお言いになる院の御様子に、昔と変わった所もないのであるが、衛門督は羞恥 を感じて自身ながらも顔色が変わっている気がして、急にお返辞ができないのであった。