柏木 かしわぎ【源氏物語 第三十六帖】
源氏物語画帖 柏木 土佐派
(第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 第三段 柏木、侍従を招いて語る)
源氏物語絵色紙帖 柏木 詞中院通村
人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る
(第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 第三段 柏木、侍従を招いて語る)
源氏物語画帖 柏木
(第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 第四段 女三の宮の返歌を見る)
柏木 土佐光信
柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か
(第五章 夕霧の物語 柏木哀惜 第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問)
かしわぎ(柏木)
柏木は源氏物語の一巻なり。此頃月卿雲客を日月星雲霞いろ〳〵の木草などに比喩して呼ぶことあり。衛門督を柏木とはいうなり、此巻、衛門督のことを叙するが故に柏木の巻という。柏木は、女三のことのみ、憂恋いに病みて、万死の内にあり、女三の方へ
今はとてもえん煙もむすほれてたえぬ思の名をやのこさん
その間に、女三の宮は、夕桐の大将を生み玉う、源氏我が子ならねど、人の思わん事思召し、いとおしくもてなす。五十日の祝に、源氏若君を懐きて、女三の前人のなき折に
たか世にかたねはまきしと人とはゝいかゝいはれの松とこたへん
とよみしかば、いとはずかしく思召すとなり、女三の宮遂に御髪下ろし、入道の宮とはなり玉う。
源氏物語絵巻 柏木
(第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家 第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる)
源氏物語絵巻 柏木
(第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去 第二段 夕霧、柏木を見舞う)
源氏物語絵巻 柏木
(第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い 第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う)
第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産
第四段 女三の宮の返歌を見る
宮が非常にお恥じになっている御様子、物思いばかりをしておいでになるということも小侍従は告げた。自身が今
冗談 で言い出したことではあるが、その宮をおいたわしく、恋しく思う魂魄はそちらへ行くかもしれぬというような気も衛門督はしていっそう思い乱れた。
「もう宮様のお話はいっさいすまい。不幸で短命な生涯 に続いて、その執着が残るために未来をまた台なしにすると思うのがつらい。心苦しいあのことを無事にお済ましになったとだけはせめて聞いて死にたい気もするがね、私たちを繋 ぎ合わせた目に見えぬものを私が夢で見た話なども申し上げることができないままになるのが苦痛だよ」
と言って深く督 の悲しむ様子を見ていては、小侍従も堪えきれずなって泣きだすと、その人もまた泣く。蝋燭 をともさせてお返事を読むのであったが、それは今も弱々しいはかない筆の跡で、美しくは書かれてあった。御病気を心苦しく聞いていながらも、私からお尋ねなどのできないことは推察ができるでしょう。「残るだろう」とお言いになりますが、立ち添ひて消えやしなましうきことを思ひ乱るる煙くらべに私はもう長く生きてはいないでしょう。内容はこんなのであった。衛門督は宮のお手紙を非常にありがたく思った。
「このお言葉だけがこの世にいるうちのもっともうれしいことになるだろう。はかない私だね」
いっそう強く督は泣き入って、またこちらからのお返事を、横になりながら休み休み書いた。鳥の足跡のような字ができる。「行くへなき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ
とりわけ夕方には空をおながめください。人目をおはばかりになりますことも、対象が実在のものでなくなるのですからいいわけでしょう。そうしてせめて永久に私をお忘れにならぬようにしてください」などと乱れ書きにした。
第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去
第二段 夕霧、柏木を見舞う
左大将は常に親友の病をいたんで見舞いを書き送っているのであるが、昇任の祝いを述べに
真先 に大臣家を訪問したのもこの人であった。衛門督の住んでいるほうの対の門内には馬や車がたくさん来ていて、忙 しそうに人々が出入りしていた。今年にはいってからは起き上がることもあまりできない衛門督であったから、大官の親友を病室に招くことが遠慮されて恋しく思いながら逢えないことを思うと残念で、督 は、
「失礼ですがやはりここへ来ていただくことにします。この場合のことでやむをえないとお許しくださるでしょう」
と挨拶 をさせて、病室の床の近くに侍している僧などをしばらく外のほうへ出して大将を迎えた。少年時代から隔てなく交際して来た間柄であったから、近く迫った死別の悲しみは大将にとって親兄弟の思いに劣らないのである。今日だけは昇任の悦 びで気分もよくなっているであろうとこの人は想像していたのであるが、期待ははずれてしまった。
「どうしてこんなにまた悪くおなりになったのでしょう。今日だけはめでたいのですから少し気分でもよくなっておられるかと思って来ましたよ」
と言って、病床に添えた几帳 の端を上げて中を見ると、
「全然私のようでなくなってしまいましたよ」
と言いながら、衛門督は烏帽子 だけを身体 の下へかって、少し起き上がろうとしたが、苦しそうであった。柔らかい白の着物を幾枚も重ねて、夜着を上に掛けているのである。病床の置かれた室は清潔に整理がされてあって感じがよい。こんな場合にも規律の正しい病人の性格がうかがえるようであった。病人というものは髪や髭 も乱れるにまかせて気味の悪い所もできてくるものであるが、この人の痩 せ細った姿はいよいよ品のよい気がされて、枕 から少し顔を上げてものを言う時には息も今絶えそうに見えるのが非常に哀れであった。
第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い
第三段 源氏、老後の感懐
乳母 には貴族の出の人ばかりが何人も選ばれて付いていた。その人たちを呼び出して、若君の取り扱いについての注意をお与えに院はなるのであった。
「かわいそうに未来の少ない老いた父を持って、おくればせに大きくなってゆこうとするのだね」
と言って、お抱き取りになると、若君は快い笑 みをお見せした。よく肥 って色が白い。大将の幼児時代に思い比べてごらんになっても似ていない。女御 の宮方は皆父帝のほうによく似ておいでになって、王者らしい相貌 の気高 いところはあるが、ことさらお美しいということもないのに、この若君は貴族らしい上品なところに愛嬌 も添っていて、目つきが美しくよく笑うのを御覧になりながら院は愛情をお感じになった。思いなしか知らぬが故衛門督 によく似ていた。これほどの幼児でいてすでに貴公子らしいりっぱな眼眸 をして艶 な感じを持っていることも普通の子供に違っているのである。
第五章 夕霧の物語 柏木哀惜
第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問
左大将は一条の宮へ始終見舞いを言い送っていた。四月の初夏の空はどことなくさわやかで、あらゆる木立ちが一色の緑をつくっているのも、寂しい家ではすべて心細いことに見られて、宮の
御母子 が悲しい退屈を覚えておいでになるころにまた左大将が来訪した。植え込みの草などもすでに青く伸びて、敷き砂の間々には強い蓬 が広がりかえっていた。林泉に対する趣味を大納言は持っていて、美しくさせていたものであるが、そうした植え込みの灌木 類や花草の類もがさつに枝を伸ばすばかりになって、一むら薄 はその蔭 に鳴く秋の虫の音 が今から想像されるほどはびこって見えるのも、大将の目には物哀れでしめっぽい気分がまず味わわれた。喪の家として御簾 に代えて伊予簾 が掛け渡され夏のに代えられたのも鈍 色の几帳 がそれに透いて見えるのが目には涼しかった。姿のよいきれいな童女などの濃い鈍色の汗袗 の端とか、後ろ向きの頭とかが少しずつ見えるのは感じよく思われたが、何にもせよ鈍色というものは人をはっとさせる色であると思われた。今日は宮のお座敷の縁側にすわろうとしたので敷き物が内から出された。例の話し相手をする御息所 に出てくれと女房たちは勧めているのであったが、このころは身体 が悪くて今日も寝ていた。御息所の出て来るまで、何かと女房が挨拶 をしている時に、人間の思いとは関係のないふうに快く青々とした庭の木立ちに大将はながめ入っていたが、気持ちは悲しかった。柏 の木と楓 が若々しい色をして枝を差しかわして立っているのを指さして、大将は女房に、
「どんな因縁のある木どうしでしょう。枝が交じり合って信頼をしきっているようなのがいい」
などと言い、さらに簾 のほうへ寄って、「ことならばならしの枝にならさなん葉守 の神の許しありきと
まだ御簾 の隔てをお除きくださらないのが遺憾です」
と言った。一段高くなった室 の長押 へ外から寄りかかっているのである。
「柔らかい形をしていらっしゃる時に、また別な美しさがおありになりますよ」
と女房らはささやき合うのであった。今まで話していた少将という女房を取り次ぎにして宮はお返辞をおさせになった。「柏木に葉守の神は坐 すとも人馴 らすべき宿の梢 か
突然にそうしたお恨みをお言いかけになりますことで御好意が疑われます」
と伝えられたお言葉に道理があると思って大将は微笑した。