夕霧 ゆうぎり【源氏物語 第三十九帖】
源氏物語画帖 夕霧 土佐派
(第四章 夕霧の物語 第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問)
源氏物語絵色紙帖 夕霧 詞花山院定熈
霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば
まかでむ方も見えずなり行くはいかがすべきとて
山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して
(第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意)
源氏物語絵巻 夕霧
宵過ぐるほどにぞこの御返り持て参れるをかく例にもあらぬ鳥の跡のやうなればとみにも見解きたまはで大殿油近う取り寄せて見たまふ女君もの隔てたるやうなれどいと疾く見つけたまうてはひ寄りて御後ろより取りたまうつ
(第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸 第二段 雲居雁、手紙を奪う)
夕霧 土佐光信
木枯の吹き払ひたるに鹿はただ籬のもとにたたずみつつ山田の引板にもおどろかず色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも愁へ顔なり
(第四章 夕霧の物語 第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問)
ゆうぎり(夕霧)
源氏物語の一巻にあり、小野に御座します一條の落葉の宮を柏木果てゝ後、夕桐大持深く心にかけ忍ばるゝ、其比落葉の宮の母の御息所、物怪にわづらひ小野の山里に在りしを、夕桐馬にて見舞はる、是れも落葉を思召す心よりなり,或る折少将の女房など呼び、語らるる内に日暮になり、山里なればわけて霧深くたちこめしかば、
山里の哀れをそふる夕霧に立いでんそらもなき心地して
とあり、其夜は泊り玉ふ、翌暁京に歸り、文して小野を訪はるゝに、宮は物はづかしく返事もし玉はざれば、御息所苦しき心の下より返事せらる、やがて空しくなる、夕桐あとのことを取計らひ,四十九日も過ぎ、落葉の宮を京へよびとり、雲井の雁と二御所にして十五日づつ通はるゝとなり。
源氏物語 夕霧
第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問
第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意
日は落ちて行く刻で、空も身にしむ色に霧が包んでいて、山の
蔭 はもう小暗 い気のする庭にはしきりに蜩 が鳴き、垣根 の撫子 が風に動く色も趣多く見えた。植え込みの灌木 や草の花が乱れほうだいになった中を行く水の音がかすかに涼しい。一方では凄 いほどに山おろしが松の梢 を鳴らしていたりなどして、不断経の僧の交替の時間が来て鐘を打つと、終わって立つ僧の唱える声と、新しい手代わりの僧の声とがいっしょになって、一時に高く経声の起こるのも尊い感じのすることであった。所が所だけにすべてのことが人に心細さを思わせるのであったから、恋する大将の物思わしさはつのるばかりであった。帰る気などには少しもなれない。律師が加持をする音がして、陀羅尼 経を錆 びた声で読み出した。御息所の病苦が加わったふうであると言って、女房たちはおおかたそのほうへ行っていて、もとから療養の場所で全部をつれて来ておいでになるのでない女房が、宮のおそばに侍しているのは少なくて、宮は寂しく物思いをあそばされるふうであった。非常に静かなこんな時に自分の心もお告げすべきであると大将が思っていると、外では霧が軒にまで迫ってきた。
「私の帰る道も見えなくなってゆきますようなこんな時に、どうすればいいのでしょう」
と大将は言って、山里の哀れを添ふる夕霧に立ち出 でんそらもなきここちして
と申し上げると、山がつの籬 をこめて立つ霧も心空なる人はとどめず
こうほのかにお答えになる優美な宮の御様子がうれしく思われて、大将はいよいよ帰ることを忘れてしまった。
「どうすることもできません。道はわからなくなってしまいましたし、こちらはお追い立てになる。だれも経験することを少しも経験せずに始めようとする者は、すぐこうした目にあいます」
などと言って、もうここに落ち着くふうを見せ、忍び余る心もほのめかしてお話しする大将を、宮は今までからもその気持ちを全然お知りにならないのでもなかったが、気づかぬふうをしておいでになったのを、あらわに言葉にして言うのをお聞きになっては、ただ困ったこととお思われになって、いっそうものを多くお言いにならぬことになったのを、大将は歎息 していて、心の中ではこんな機会はまたとあるわけもない、思い切ったことは今でなければ実行が不可能になろうとみずからを励ましていた。
源氏物語 夕霧
第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問
第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る
「せめて朝までおいでにならずにお帰りなさい」
と大将をお促しになるよりほかのことはおできにならないのである。
「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対してすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけはおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、上手 に追いやってしまったのだというふうを今後お見せになることがありましたなら、その時にはもう自制の力をなくして情熱のなすがままに自分をまかせなければならなくなることと思いますよ」
大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去にも経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことであり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや空虚 になったような気持ちであった。「萩原 や軒端 の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき
あなたも濡衣 をお乾 しになれないでしょう。それも無情に私をお追いになった報いとお思いになるほかはないでしょう」
と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてやましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、「わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ
ひどい目に私をおあわせになるのですね」
と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今まで古い情誼 を忘れない親切な男になりすまして、好意を見せ続けて来た態度を一変して好色漢になってしまうことが宮にお気の毒でもあり、自身にも恥ずかしいと、大将は心に燃え上がるものをおさえていたが、またあまり過ぎた謙抑 は取り返しのつかぬ後悔を招くことではないかともいろいろに煩悶 をしながら帰って行くのであった。
源氏物語 夕霧
第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸
第六段 御息所死去す
御息所はじっと宮をながめながら、
「あなたはどこが人より悪いのでしょう。そんなことは絶対にない。何という運命でこうした御不幸な目にばかりおあいになるのだろう」
などと言っているうちに御息所の容体は最悪なものになっていった。物怪 などというものもこうした弱り目に暴虐をするものであるから、御息所の呼吸はにわかにとまって、身体 は冷え入るばかりになった。律師もあわてて願 などを立て、祈祷 に大声を放っているのである。御仏 に約して、自身の生存する最後の時まで下山せず寺にこもると立てた堅い決心をひるがえして、この人を助けようとする自分の祈祷が効を奏せずに失敗して山へ帰るほど不名誉なことはなくて、その場合には御仏さえも恨むであろうことを言葉にして祈っているのである。宮が泣き惑うておいでになるのもごもっともなことに思われた。
この騒ぎの中で、大将の消息が来たという者の声を、御息所はほのかに聞いてそれでは今夜も来ないのであろうと思った。情けないことである、こうした恥ずかしい名を宮はまたお受けになるのであろう、自分までがなぜ受け入れるふうな手紙などを書いてやったのであろうと悶 えるうちに御息所の命は終わった。
源氏物語 夕霧
第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧
第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問
九月の十幾日であって、野山の色はあさはかな人間をさえもしみじみと悲しませているころであった。山おろしに木の葉も峰の
葛 の葉も争って立てる音の中から、僧の念仏の声だけが聞こえる山荘の内には人げも少なく、蕭条 とした庭の垣 のすぐ外には鹿 が出て来たりして、山の田に百姓の鳴らす鳴子 の音にも逃げずに、黄になった稲の中で啼 く声にも愁 いがあるようであった。滝の水は物思いをする人に威嚇 を与えるようにもとどろいていた。叢 の中の虫だけが鳴き弱った音 で悲しみを訴えている。枯れた草の中から竜胆 が悠長に出て咲いているのが寒そうであることなども皆このごろの景色 として珍しくはないのであるが、折 と所とが人を寂しがらせ、悲しがらせるのであった。
夕霧は例の西の妻戸の前で中へものを言い入れたのであるが、そのまま立って物思わしそうにあたりをながめていた。柔らかな気のする程度に着馴 らした直衣 の下に濃い紫のきれいな擣目 の服が重なって、もう光の弱った夕日が無遠慮にさしてくるのを、まぶしそうに、そしてわざとらしくなく扇をかざして避けている手つきは女にこれだけの美しさがあればよいと思われるほどで、それでさえこうはゆかぬものをなどと思って女房たちはのぞいていた。
源氏物語 夕霧
第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る
第五段 落葉宮、自邸へ向かう
時雨 があわただしく山荘を打って、全体の気分が非常に悲しくなった。上りにし峰の煙に立ちまじり思はぬ方になびかずもがな
とお口ずさみになったとおりに宮は思召すのであるが、そのころは鋏刀 などというものを皆隠して、お手ずから尼におなりになるようなことのないように女房たちが警戒申し上げていたから、そんなふうにお騒ぎをせずとも、惜しく尊重すべき自分でもないものを、しいて尼になってみずからを清くしようとも思わず、すればかえって人の反感を買うにすぎないことも知っているのであるから、と思召して宮は御本意を遂げようともあそばさないのである。女房は皆移転の用意に急いで、お櫛箱 、お手箱、唐櫃 その他のお道具を、それも仮の物であったから袋くらいに皆詰めてすでに運ばせてしまったから、宮お一人が残っておいでになることもおできにならずに、泣く泣く車へお乗りになりながらも、あたりばかりがおながめられになって、こちらへおいでになる時に、御息所 が病苦がありながらも、お髪 をなでてお繕いして車からお下 ろししたことなどをお思い出しになると、涙がお目を暗くばかりした。お護 り刀とともに経の箱がお席の脇 へ積まれたのを御覧になって、恋しさの慰めがたき形見にて涙に曇る玉の箱かな
とお歌いあそばされた。黒塗りのをまだお作らせになる間がなくて、御息所が始終使っていた螺鈿 の箱をそれにしておありになるのである。御息所の容体の悪い時に誦経 の布施として僧へお出しになった品であったが、形見に見たいからとまたお手もとへお取り返しになったものである。浦島の子のように箱を守ってお帰りになる宮であった。
源氏物語 夕霧
第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ
こんなみじめなことで来たり出て行ったりすることもきまり悪くこの人は思って、今日はこちらにとどまっていることにして落ち着いているのにも、宮は反感がお持たれになって、いよいようといふうをお見せになることが増してくるのを、幼稚なお心の方であると、恨めしく思いながらも哀れに感じていた。
蔵 の中も別段細かなものがたくさん置かれてあるのでなく、香の唐櫃 、お置き棚 などだけを体裁よくあちこちの隅 へ置いて、感じよく居間に作って宮はおいでになるのである。中は暗い気のする所へ、出たらしい朝日の光がさして来た時に、夕霧は被 いでおいでになる宮の夜着の端をのけて、乱れたお髪 を手でなで直しなどしながらお顔を少し見た。上品で、あくまで女らしく艶 なお顔であった。男は正しく装っている時以上に、部屋の中での柔らかな姿が顔を引き立ててきれいに見えた。柏木 が普通の風采 でしかないのにもかかわらず思い上がり切っていて、宮を美人でないと思うふうを時々見せたことを宮はお思い出しになると、その当時よりも衰えてしまった自分をこの人は愛し続けることができないであろうとお考えられになって、恥ずかしくてならぬ気があそばされるのであった。
宮はなるべく楽観的にものを考えることにお努めになってみずから慰めようとしておいでになるのであった。ただ複雑な関係になって、あちらへもこちらへも済まぬわけになることを苦しくお思いになるのと、おりが母君の喪中であることによってこうした冷ややかな態度をおとり続けになるのである。