幻 まぼろし【源氏物語 第四十一帖】
源氏物語画帖 幻 土佐派
(第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語 第四段 源氏、出家の準備)
源氏物語絵色紙帖 幻 詞冷泉為頼
死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほ惑ふかな
さぶらふ人びともまほにはえ引き広げねどそれとほのぼの見ゆるに心惑ひどもおろかならずこの世ながら遠からぬ御別れのほどをいみじと思しけるままに書いたまへる言の葉げにその折よりもせきあへぬ悲しさやらむかたなしいとうたて今ひときはの御心惑ひも女々しく人悪るくなりぬべければよくも見たまはでこまやかに書きたまへるかたはらに
かきつめて見るもかひなし藻塩草 同じ雲居の煙とをなれ
と書きつけて皆焼かせたまふ
(第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語 第三段 源氏、手紙を焼く)
幻 土佐光信
春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてむ
御返し
千世の春見るべき花と祈りおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる
(第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語 第四段 源氏、出家の準備)
まぼろし(幻)
源氏物語の一巻に幻あり.源氏最愛の夫人紫の上を失うて朝夕思ひわするゝ事なく、
大空を通ふまぼろし夢にだに 見へぬと玉の行衛尋ねよ
とあり、またのとし三の君のかたみの紅梅に鶯啼けるも知らずかほなりとて、
うへて見し花のあるしもなき宿に 知らす歌にも来ぬる鶯
とあり。
源氏物語 幻
第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語
第五段 春深まりゆく寂しさ
春が深くなっていくにしたがって庭の木立ちが昔の色を皆備えてお胸を痛くするばかりであったから、この世でもないほどに遠くて、鳥の声もせぬ山奥へはいりたくばかり院はお思いになるのであった。山吹の咲き誇った盛りの花も涙のような露にぬれているところばかりがお目についた。よそでは一重桜が散り、八重の盛りが過ぎて
樺桜 が咲き、藤 はそのあとで紫を伸べるのが春の順序であるが、この庭は花の遅速を巧みに利用して、散り過ぎた梢はあとの花が隠してしまうように女王がしてあったために、いつまでも光る春がとどまっているようなのである。若宮が、
「私の桜がとうとう咲いた。いつまでも散らしたくないな。木のまわりに几帳 を立てて、切れを垂 れておいたら風も寄って来ないだろうと思う」
たいした発明をされたようにこう言っておいでになる顔のお美しさに院も微笑をあそばした。
「覆 うばかりの袖 がほしいと歌った人よりも宮の考えのほうが合理的だね」
などとお言いになって、この宮だけを相手にして院は暮らしておいでになるのであった。
「あなたと仲よくしていることも、もう長くはないのですよ。私の命はまだあっても、絶対にお逢いすることができなくなるのです」
とまた院は涙ぐんでお言いになるのを、宮は悲しくお思いになって、
「お祖母 様のおっしゃったことと同じことをなぜおっしゃるの、不吉ですよ、お祖父 様」
と言って、顔を下に伏せて御自身の袖などを手で引き出したりして涙を宮はお隠しになっていた。欄干の隅 の所へ院はおよりかかりになって、庭をも御簾 の中をもながめておいでになった。女房の中にはまだ喪服を着ているのがあった。普通の服を着ているのも、皆派手 な色彩を避けていた。院御自身の直衣 も色は普通のものであるが、わざとじみな無地なのを着けておいでになるのであった。座敷の中の装飾なども簡素になっていて目に寂しい。今はとて荒 しやはてん亡 き人の心とどめし春の垣根 を
とお歌いになる院は真心からお悲しそうであった。
源氏物語 幻
第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語
第一段 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす
中将の君が東の座敷でうたた寝しているそばへ院が寄ってお行きになると、美しい小柄な中将の君は起き上がった。赤くなっている顔を恥じて隠しているが、少し癖づいてふくれた髪の横に見えるのがはなやかに見えた。紅の黄がちな色の
袴 をはき、単衣 も萱草 色を着て、濃い鈍 色に黒を重ねた喪服に、裳 や唐衣 も脱いでいたのを、中将はにわかに上へ引き掛けたりしていた。葵 の横に置かれてあったのを院は手にお取りになって、
「何という草だったかね。名も忘れてしまったよ」
とお言いになると、さもこそは寄るべの水に水草 ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる
と恥じらいながら中将は言った。そうであったと哀れにお思いになって、おほかたは思ひ捨ててし世なれどもあふひはなほやつみおかすべき
源氏物語 幻
第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語
第二段 源氏、出家を決意
十月は
時雨 がちな季節であったからいっそう院のお心はお寂しそうで、夕方の空の色なども言いようもなく心細く御覧になるのであって、「いつも時雨は降りしかど」(かく袖 ひづるをりはなかりき)などと口ずさんでおいでになった。空を渡る雁 が翼を並べて行くのもうらやましくお見守られになるのである。大空を通ふまぼろし夢にだに見えこぬ魂 の行く方 尋ねよ
何によっても慰められぬ月日がたっていくにしたがい、院のお悲しみは深くばかりになった。