竹河 たけかわ・たけかは【源氏物語 第四十四帖 匂宮三帖の第三帖】
源氏物語画帖 紅梅 土佐派
(第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院 第六段 冷泉院における大君と薫君)
源氏物語絵巻 竹河
尚侍の殿御念誦堂におはしてこなたにとのたまへれば東の階より昇りて戸口の御簾の前にゐたまへり御前近き若木の梅心もとなくつぼみて鴬の初声もいとおほどかなるにいと好かせたてまほしきさまのしたまへれば人びとはかなきことを言ふに言少なに心にくきほどなるをねたがりて宰相の君と聞こゆる上臈の詠みかけたまふ
折りて見ばいとど匂ひもまさるやと すこし色めけ梅の初花
口はやしと聞きて
よそにてはもぎ木なりとや定むらむ 下に匂へる梅の初花
さらば袖触れて見たまへなど言ひすさぶにまことは色よりもと口々引きも動かしつべくさまよふ
(第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語 第二段 薫君、玉鬘邸に年賀に参上)
源氏物語絵巻 竹河
中将など立ちたまひてのち君たちは打ちさしたまへる碁打ちたまふ昔より争ひたまふ桜を賭物にて三番に数一つ勝ちたまはむ方にはなほ花を寄せてむと戯れ交はし聞こえたまふ暗うなれば端近うて打ち果てたまふ御簾巻き上げて人びと皆挑み念じきこゆ折しも例の少将侍従の君の御曹司に来たりけるをうち連れて出でたまひにければおほかた人少ななるに廊の戸の開きたるにやをら寄りてのぞきけり
(第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語 第七段 蔵人少将、姫君たちを垣間見る)
竹河 土佐光信
負け方の姫君
桜ゆゑ風に心の騒ぐかな思ひぐまなき花と見る見る
御方の宰相の君
咲くと見てかつは散りぬる花なれば負くるを深き恨みともせず
(第二章 玉鬘邸の物語 第八段 姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む)
源氏物語絵色紙帖 竹河 詞四辻季繼 土佐光吉
藤のおもしろく咲きかかりたるを水のほとりの石に苔を蓆にて眺めゐたまへりまほにはあらねど世の中恨めしげにかすめつつ語らふ
手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
(第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院 第六段 冷泉院における大君と薫君)
たけかは(竹河)
『源氏物語』五十四帖の中、光源氏既に世を去つて、薫十四歳の春から二十三歳までの数々の物語が記されてゐる、髭黒の大将は関白の位に上り、玉鬘の腹には若君三人、姫君二人あつて何れも美しく、その比、薫は四位の侍従であつたが、これらの人々と往き通ひしつゝ、時に催馬楽の竹河など歌ひ興ずる、巻の名もそれから出てゐる。
あしたに四位の侍従のもとより、あるじの侍従のもとによべは、いとみだりかはしかりしを、人々いかに見給ひけんと、見給へとおぼしう仮名がちにかきて、はしに
竹河のはしうちいでしひとふしに深き心のそこはしりきや
と書きたり、寝殿にもて参りて、これかれ見給ふ。
又、夕霧の北の方雲井の雁の子、蔵人の少将も、此の姉の姫に思ひをかけ、時折遊びに通ひ、桜などかけて碁をうつて興ずる。『三番に数ひとつ勝ち給はん方に、花をよせて人とたはふれかはし聞え給ふ』などとある、これを『竹河の碁』といふ。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
源氏物語 竹河
第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
第二段 薫君、玉鬘邸に年賀に参上
東の
階 から上がって、妻戸の口の御簾 の前へ薫はすわった。前になった庭の若木の梅が、まだ開かぬ蕾 を並べていて、鶯 の初声 もととのわぬ背景を負ったこの人は、恋愛に関した戯れでも言わせたいような美しい男であったから、女房たちはいろいろな話をしかけるのであるが、静かに言葉少なな応対だけより侍従がしないのをくやしがって、宰相の君という高級の女房が歌を詠 みかけた。折りて見ばいとど匂 ひもまさるやと少し色めけ梅の初花
速く歌のできたことを薫は感心しながら、「よそにては木 なりとや定むらん下に匂へる梅の初花
疑わしくお思いになるなら袖 を触れてごらんなさい」
などと言っていると、また女房は、
「真実 は色よりも香」
口々にこんなことを言って、引き揺らんばかりに騒いでいる
源氏物語 竹河
第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
第四段 得意の薫君と嘆きの蔵人少将
少将もよい声で「さき草」を歌った。批評家などがいないために、皆興に乗じていろいろな曲を次々に弾き、歌も多く歌われた。この家の侍従は父のほうに似たのか音楽などは不得意で、友人に杯をすすめる役ばかりしているのを、友から、
「君も勧杯の辞にだけでも何かをするものだよ」
と言われて、「竹河 」をいっしょに歌ったが、まだ少年らしい声ではあるがおもしろく聞こえた。御簾 の中からもまた杯が出された。
「あまり酔っては、平生心に抑制していることまでも言ってしまうということですよ。その時はどうなさいますか」
などと言って、薫の侍従は杯を容易に受けない。小袿 を下に重ねた細長のなつかしい薫香 のにおいの染 んだのを、この場のにわかの纏頭 に尚侍は出したのであるが、
「どうしたからいただくのだかわからない」
と言って、薫はこの家の藤侍従の肩へそれを載せかけて帰ろうとした。引きとめて渡そうとしたのを、
「ちょっとおじゃまするつもりでいておそくなりましたよ」
とだけ言って逃げて行った。
蔵人少将はこの源侍従が意味ありげに訪問した今夜のようなことが続けば、だれも皆好意をその人にばかり持つようになるであろう、自分はいよいよみじめなものになると悲観していて、御簾 の中の人へ恨めしがるようなこともあとに残って言っていた。人は皆花に心を移すらん一人ぞ惑ふ春の夜の闇
こう言って、歎息 しながら帰ろうとしている少将に、御簾の中の人が、折からや哀れも知らん梅の花ただかばかりに移りしもせじ
と返歌をした。
翌朝になって源侍従から藤侍従の所へ、昨夜は失礼をして帰りましたが皆さんのお気持ちを悪くしなかったかと心配しています。と、婦人たちにも見せてほしいらしく仮名がちに書いて、端に、
竹河 のはしうちいでし一節 に深き心の底は知りきや
という歌もある手紙を送って来た。
源氏物語 竹河
第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
第七段 蔵人少将、姫君たちを垣間見る
中将などが立って行ったあとで、姫君たちは打ちさしておいた碁をまた打ちにかかった。昔から争っていた桜の木を
賭 けにして、
「三度打つ中で、二度勝った人の桜にしましょう」
などと戯れに言い合っていた。
暗くなったので勝負を縁側に近い所へ出てしていた。御簾 を巻き上げて、双方の女房も固唾 をのんで碁盤の上を見守っている。ちょうどこの時にいつもの蔵人 少将は侍従の所へ来たのであったが、侍従は兄たちといっしょに外へ出たあとであったから、人気 も少なく静かな邸 の中を少将は一人で歩いていたが、廊 の戸のあいた所が目について、静かにそこへ寄って行って、のぞいて見ると、向こうの座敷では姫君たちが碁の勝負をしていた。こんな所を見ることのできたことは、仏の出現される前へ来合わせたと同じほどな幸福感を少将に与えた。夕明りも霞 んだ日のことでさやかには物を見せないのであるが、つくづくとながめているうちに、桜の色を着たほうの人が恋しい姫君であることも見分けることができた。「散りなんのちの」という歌のように、のちの形見にも面影をしたいほど麗艶 な顔であった。いよいよこの人をほかへやることが苦しく少将に思われた。若い女房たちの打ち解けた姿なども夕明りに皆美しく見えた。
源氏物語 竹河
第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院
第六段 冷泉院における大君と薫君
ある夕方のしめやかな気のする時に、
薫 の侍従は藤 侍従とつれ立って院のお庭を歩いていたが、新女御の住居 に近い所の五葉 の木に藤 が美しくかかって咲いているのを、水のそばの石に、苔 を敷き物に代えて二人は腰をかけてながめていた。露骨には言わないのであるが、失恋の気持ちをそれとなく薫は友にもらすのであった。手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
と言って、花を見上げた薫の様子が身に沁 んで気の毒に思われた藤侍従は、自身は無力で友のために尽くすことができなかったということをほのめかして薫をなだめていた。紫の色は通へど藤の花心にえこそ任せざりけれ
まじめな性質の人であったから深く同情をしていた。薫は失恋にそれほど苦しみもしていなかったが残念ではあった。
源氏物語 竹河
第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語
第二段 翌日、冷泉院、薫を召す
薫侍従に院からのお召があった。
「苦しいことだ。しばらく休養したいのに」
と言いながら伺候した。御所で踏歌を御覧になった様子などを院はお尋ねになるのであった。
「歌頭 は今まで年長者がするものなのだが、それに選ばれるほど認められているのだと思って満足した」
と仰せられてかわいく思召す御さまである。「万春楽 」(踏歌の地に弾 く曲)の譜をお口にあそばしながら新女御の御殿へおいでになる院のお供を薫はした。前夜の見物に自邸のほうから来ていた人たちが多くて、平生よりも御簾の中のけはいがはなやかに感ぜられるのである。渡殿 の口の所にしばらく薫はいて、声になじみのある女房らと話などをしていた。
「昨夜の月はあまりに明るくて困りましたよ。蔵人少将が輝くように見えましたね。御所のほうではそうでもありませんでしたが」
などと言う薫の言葉を聞いて、心に哀れを覚えている女房もあった。
「夜のことでよくわかりませんでしたが、あなたがだれよりもごりっぱだったということは一致した評でございました」
などと口上手 なことも言って、また中から、竹河のその夜のことは思ひいづや忍ぶばかりの節 はなけれど
だれかの言ったこの歌に、薫は涙ぐまれたことで、自分の心にも深くしみついている恋であることがわかった。流れての頼みむなしき竹河に世はうきものと思ひ知りにき
と答えて、物思いのふうの見えるのを女房たちはおかしがった。