浮舟 うきふね【源氏物語 第五十一帖 宇治十帖の第七帖】

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源氏物語画帖 浮舟 土佐派

(第四章 浮舟と匂宮の物語 第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す)

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浮舟 土佐光信

橘の小島の色は変はらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ

(第四章 浮舟と匂宮の物語 第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す)

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浮舟図 土佐派

うきふね(浮舟)

源氏の第二子薫中将浮舟といえる姫君を宇治に隠まい置かれしを、匂宮見出して宇治に忍び行き、薫中将の様にして右近と呼ぶ女房によりて内に入り契りを交わしたり、姫君も後に薫中将ならぬことを知りしもせんなく滞留二月に及び帰りしが、匂宮再び宇治に赴かせられ、小さき舟催うして浮舟の姫と二人之に乗りて橘の小島がさきに棹し、積る物語あり。匂の宮

年経ともかはらしものを橘の小島のさきにちきる心を

扨舟よりいたき下ろして宿りにて静かに物語りあり、硯引きよせて宮男と女の絵描き、諸共にかくあれかしと祈りけり、その後薫中将坐わして、遂に浮舟と宮との忍びこと顕われて、それより宿直きびしくせられしかば、また匂の宮とは会うこと叶わずなりぬ、遂に浮舟は夜陰にまぎれ出て、入水して終りぬるを一巻の趣向とす。

 

『画題辞典』斎藤隆

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浮舟図屏風 狩野尚信

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源氏物語図屏風 土佐光吉

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見立浮舟 鈴木春信

橘の小島の色は変はらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第一章 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る

第四段 正月、宇治から京の中君への文

第五段 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す

 正月の元日の過ぎたあとで宮は二条の院へ来ておいでになって、としの一つ加わった若君をそばへ置き愛しておいでになった。ひるごろであるが、小さい童女が緑の薄様うすようの手紙の大きい形のと、小さい髭籠ひげかごを小松につけたのと、また別の立文たてぶみの手紙とを持ち、むぞうさに走って来て夫人の前へそれを置いた。宮が、
「それはどこからよこしたのか」
 とお言いになった。
「宇治から大輔たゆうさんの所に差し上げたいと言ってまいりました使いが、うろうろとしているのを見たものですから、いつものように大輔さんがまた奥様へお目にかけるお手紙だろうと思いまして、私、受け取ってまいりました」
 せかせかと早口で申した。
「この籠は金のはくで塗った籠でございますね、松もほんとうのものらしくできた枝ですわ」
 うれしそうな顔で言うのを御覧になって、宮もお笑いになり、
「では私もどんなによくできているかを見よう」
 と言い、受け取ろうとあそばされたのを、夫人は困ったことと思い、
「手紙だけは大輔の所へ持ってお行き」
 こういう顔が少し赤くなっていたのを宮はお見とがめになり、大将がさりげなくして送って来たふみなのであろうか、宇治と言わせて来たのもその人の考えつきそうなことであると、こんな想像をあそばして、手紙を童女から御自身の手へお取りになった。さすがにそれであったならどんなことになろう、夫人はどんなに恥じて苦しがるであろうとお思いになると躊躇ちゅうちょもされるのであって、
「あけて私が読みますよ。恨みますか、あなたは」
 とお言いになると、
「そんなもの、女房どうしで書き合っています平凡な手紙などを御覧になってもおもしろくも何ともないでしょう」
 夫人は騒がぬふうであった。
「じゃあ見よう。女仲間の手紙にはどんなことが書かれてあるものだろう」
 とお言いになり、あけてお見になると、若々しい字で、

その後お目にかかることもできませんままで年も暮れたのでございました。山里は寂しゅうございます。峰からもやの離れることもありませんで。

 などとある奥に、

これを若君に差し上げます。つまらぬものでございますが。

 と書いてある。ことに貴女らしいふうも見えぬ手紙ではあるが、心当たりのおありにならぬために、また立文のほうを御覧になると、いかにも女房らしい字で、

新年になりまして、そちら様はいかがでいらっしゃいますか。御主人様、また皆様がたにもお喜びの多い春かと存じ上げます。ここはごりっぱな風流なおやしきですが、お若い方にふさわしい所とは思われません。つれづれな日ばかりをお送りになりますよりは、時々そちら様へお上がりになって、お気をお晴らしになるのがよろしいと存じ上げるのですが、あのめんどうなことの起こりました日のことで恐ろしいように懲りておいでになりまして、あいかわらずめいったふうでおいでになります。若君様へこちらから卯槌うづちを差し上げられます。そまつな品ですから奥様の御覧にならぬ時に差し上げてくださいと仰せになりました。

 こまごまと、年の初めの縁起も忘れて、主人のことを哀訴している、かたくならしい心も見える手紙を、宮は何度となく読んで御覧になり、怪しく思召して、
「もう言ってもいいでしょう、だれの手紙ですか」
 と夫人へお言いになった。
「以前あの山荘にいました人の娘が、訳があってこのごろあそこにいるということを聞いていました。それでしょう」
 この答えをお聞きになった宮は、普通の二人の女房が同じ階級の者として一人のことの言われてある文章でもないし、めんどうが起こったと書いてあるのは、あの時のことをさして言うに違いないとお悟りになった。卯槌が美しい細工で作られてあるのは、閑暇ひまの多い人の仕事と見えた。またぶりに山橘やまたちばなの実を作ってならせてあるのへ付けてあったのは、

まだふりぬものにはあれど君がため深き心にまつとしらなん


 こんな平凡な歌であったが、常に心にかかっている人の作であるかもしれぬということで興味をお覚えになった。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

第二段 宮、馬で宇治へ赴く

第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る

法性寺のあたりまではお車で、それから馬をお用いになったのである。
 急いでおいでになったため、宮は九時ごろに宇治へお着きになった。内記は山荘の中のことをよく知った右大将家の人から聞いていたので、宿直とのいの侍の詰めているほうへは行かずに、葦垣あしがきで仕切ってある西の庭のほうへそっとまわって、垣根を少しこわして中へはいった。聞いただけは知っていたが、まだ来たことのない家であって、たよりない気はしながら、人の少ない所であるため、庭をまわり、寝殿の南に面した座敷にのほのかにともり、そこにそよそよと絹の触れ合う音を聞いて行き、宮へそう申し上げた。
「まだ人は起きているようでございます。ここからいらっしゃいまし」
 と内記は言い、自身の通った路へ宮をお導きして行った。静かに縁側へお上がりになり、格子に隙間すきまの見える所へ宮はお寄りになったが、中の伊予簾いよすだれがさらさらと鳴るのもつつましく思召おぼしめされた。きれいに新しくされた御殿であるが、さすがに山荘として作られた家であるから、普請ふしんが荒くて、戸に穴のすきなどもあったのを、だれが来てのぞくことがあろうと安心してふさがないでおいたものらしい。几帳きちょう垂帛たれを上へ掛けて、それがまた横へ押しやられてあった。灯を明るくともして縫い物をしている女が三、四人いた。美しい童女は糸をっていたが、宮はその顔にお見覚えがあった。あの夕べの灯影ほかげで御覧になった者だったのである。思いなしでそう見えるのかとお疑われにもなったが、また右近とその時に呼ばれていた若い女房も座に見えた。主君である人の、かいなまくらにしてをながめたつき、髪のこぼれかかった額つきが貴女きじょらしくえんで、西の対の夫人によく似ていた。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす

 平生はつれづれで退屈で、かすんだ山ぎわの空ばかりをながめて時のたつのをもどかしがる姫君であるが、時のたち日の暮れていくのを真底からわびしがっておいでになる方のお気持ちが反映して、はかなく日の暮れてしまった気もした。ただ二人きりでおいでになって、春の一日の間見ても飽かぬ恋人を宮はながめてお暮らしになったのである。欠点と思われるところはどこにもない愛嬌あいきょうの多い美貌びぼうで女はあった。そうは言っても二条の院の女王には劣っているのである。まして派手はでな盛りの花のような六条の夫人に比べてよいほどの容貌ではないが、たぐいもない熱情で愛しておいでになるお心から、まだ過去にも現在にも見たことのないような美人であると宮は思召した。姫君はまた清楚せいそ風采ふうさいの大将を良人おっとにして、これ以上の美男はこの世にないであろうと信じていたのが、どこもどこもきれいでおありになる宮は、その人にまさった美貌の方であると思うようになった。
 すずりを引き寄せて宮は紙へ無駄むだ書きをいろいろとあそばし、上手じょうずな絵などをいてお見せになったりするため、若い心はそのほうへ多く傾いていきそうであった。
「逢いに来たくても私の来られない間はこれを見ていらっしゃいよ」
 とお言いになり、美しい男と女のいっしょにいる絵をおきになって、
「いつもこうしていたい」
 とお言いになると同時に涙をおこぼしになった。

「長き世をたのめてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり


 こんなにまであなたが恋しいことから前途が不安に思われてなりませんよ。意志のとおりの行動ができないで、どうして来ようかと苦心を重ねる間に死んでしまいそうな気がします。あの冷淡だったあなたをそのままにしておかずに、どうして捜し出して再会を遂げたのだろう、かえって苦しくなるばかりだったのに」
 女は宮が墨をつけてお渡しになった筆で、

心をば歎かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば


 と書いた。自分の恋の変わることを恐れる心があるらしいと、宮はこれを御覧になっていよいよ可憐にお思われになった。
「どんな人の変わりやすかったのに懲りたのですか」
 などとほほえんでお言いになり、かおるがいつからここへ伴って来たのかと、その時を聞き出そうとあそばすのを女は苦しがって、
「私の申せませんことをなぜそんなにしつこくおきになりますの」
 と恨みを言うのも若々しく見えた。そのうちわかることであろうと思召しながら、直接今この人に言わせて見たいお気持ちになっておいでになるのであった。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む

第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る

 次の日もとどまっておいでになることはできなかったから、帰ろうとあそばすのであったが、魂は恋人のそでの中にとどめてお置きになるように見えた。せめて明るくならぬうちにとお供の人たちはせき払いをしてお促しするのであった。
 妻戸の所へ女をいっしょにつれておいでになって、さてそこから別れてお行きになることがおできにならない。
 

世に知らず惑ふべきかな先に立つ涙も道をかきくらしつつ


 女も限りなく別れを悲しんだ。

涙をもほどなきそでにせきかねていかに別れをとどむべき身ぞ


 風の音も荒くなっていた霜の深い暁に、衣服さえも冷やかな触感を与えるとお覚えになり、宮は馬へお乗りになったものの、何度となく引き返したくおなりになったのを、お供の人がしいて冷酷に心を持ちお馬を急がせてまた歩ませたために、お心でもなく山荘を後ろにあそばすことになった。時方ともう一人の五位が馬の口を取っていたのである。けわしい所を越えてから自身らも馬に乗った。宇治川みぎわの氷を踏み鳴らす馬の足音すらも宮のお心を悲しませた。昔もこの道だけで山踏みをした自分である、不思議な因縁の続く宇治の道ではないかと思召おぼしめした。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第三章 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す

第四段 薫と浮舟、それぞれの思い

第五段 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す

月初めの夕月夜に少し縁へ近い所へ出て横になりながら二人は外を見ていた。薫は昔の人を思い、女は新しい物思いになった恋に苦しみ、双方とも離れ離れのことを考えていた。山のほうは霞がぼんやりと隠していて、寒い洲崎すさきのほうにさぎの立っている姿があたりの景によき調和を見せてい、はるばると長い宇治橋が向こうにはかかり、柴船しばぶねが川の上の所々を行きちがって通るのも他と違った感傷的な風景であったから、見るたびに昔のことが今のような気がして、この姫君ほどの人でない女にもせよ、いっしょにおればあわれみはわいてくるであろうと思われるのに、まして恋しい人に似たところが多く、かわりとして見てもそう格段な価値の相違もない人が、ようやく思想も成熟してき、都なれていく様子の美しさも時とともに加わる人であるからと薫は満足感に似たものを覚えて相手を見ていたが、女はいろいろな煩悶のために、ともすれば涙のこぼれる様子であるのを大将はなだめかねていた。

宇治橋の長き契りは朽ちせじをあやぶむ方に心騒ぐな


 そのうち私の愛を理解できますよ」
 と言った。

絶え間のみ世には危ふき宇治橋を朽ちせぬものとなほたのめとや


 と女は言う。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

第二段 匂宮、雪の山道の宇治へ行く

第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 山荘では宮のほうから出向くからというおしらせを受けていたが、こうした深い雪にそれは御実行あそばせないことと思って気を許していると、夜がふけてから、右近を呼び出して従者が宮のおいでになったことを伝えた。うれしいお志であると姫君は感激を覚えていた。右近はこんなことが続出して、行く末はどうおなりになるかと姫君のために苦しくも思うのであるが、こうした夜によくもと思う心はこの人にもあった。お断わりのしようもないとして、自身と同じように姫君からむつまじく思われている若い女房で、少し頭のよい人を一人相談相手にしようとした。
「少しめんどうな問題なのですが、その秘密を私といっしょに姫君のために隠すことに骨を折ってくださいな」
 と言ったのであった。そして二人で宮を姫君の所へ御案内した。途中で濡れておいでになった宮のお衣服から立つ高いにおいに困るわけであったが、大将のにおいのように紛らわせた。
 夜のうちにお帰りになることは、逢いえぬ悲しさに別れの苦しさを加えるだけのものになるであろうからと思召した宮は、この家にとどまっておいでになる窮屈さもまたおつらくて、時方ときかたに計らわせて、川向いのある家へ恋人を伴って行く用意をさせるために先へそのほうへおやりになった内記が夜ふけになってから山荘へ来た。
「すべて整いましてございます」
 と時方は取り次がせた。にわかに何事を起こそうとあそばすのであろうと右近の心は騒いで、不意に眠りからさまされたのでもあったから身体がふるえてならなかった。子供が雪遊びをしているようにわなわなとふるえていた。どうしてそんなことをと異議をお言わせになるひまもお与えにならず宮は姫君を抱いて外へお出になった。右近はあとを繕うために残り、侍従に供をさせて出した。はかないあぶなっかしいものであると山荘の人が毎日ながめていた小舟へ宮は姫君をお乗せになり、船が岸を離れた時にははるかにも知らぬ世界へ伴って行かれる気のした姫君は、心細さに堅くお胸へすがっているのも可憐に宮は思召された。有明ありあけの月が澄んだ空にかかり、水面も曇りなく明るかった。
「これがたちばなの小嶋でございます」
 と言い、船のしばらくとどめられた所を御覧になると、大きい岩のような形に見えて常磐ときわぎのおもしろい姿に繁茂した嶋が倒影もつくっていた。
「あれを御覧なさい。川の中にあってはかなくは見えますが千年の命のある緑が深いではありませんか」
 とお言いになり、

とも変はらんものか橘の小嶋のさきに契るこころは


 とお告げになった。女も珍しい楽しいみちのような気がして、

橘の小嶋は色も変はらじをこの浮舟ぞ行くへ知られぬ


 こんなお返辞をした。月夜の美と恋人のえんな容姿が添って、宇治川にこんな趣があったかと宮は恍惚こうこつとしておいでになった。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第六章 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

第一段 薫と匂宮の使者同士出くわす

この前の前、雨の降った日に山荘で落ち合った使いがまたこの日出逢うことになって、大将の随身は式部少輔しょうの所でときどき見かける男が来ているのに不審を覚えて、
「あんたは何の用でたびたびここへ来るのかね」
 といた。
「自分の知った人に用があるもんだから」
「自分の知った人にえん恰好かっこうの手紙などを渡すのかね。理由わけがありそうだね、隠しているのはどんなことだ」
真実ほんとうかみ(時方は出雲権守いずものごんのかみでもあった)さんの手紙を女房へ渡しに来るのさ」
 随身は想像と違ったこの答えをいぶかしく思ったがどちらも山荘を辞して来た。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟

 

絵入源氏物語 早稲田大学図書館

第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す

第五段 匂宮、浮舟に逢えず帰京す

 馬上の宮は少し遠くへ立っておいでになるのであったが、田舎風いなかふうな犬が集まって来てえ散らす。恐ろしい気がしてお供の少ない軽いお出歩きであったから、無法者が走って出て来たならどう防いでよいかなどと、四、五人の者は心配していた。
「どうしても来てくださることですよ。早く、早く」
 とせきたてて時方は侍従をつれて来るのであった。髪を右のわきから前へ曲げて持っている侍従は美しい女房であった。馬に乗せようとするが承知しないために、衣服のすそを時方は持ってやりながら歩かせて行くのである。自身のくつを侍従にはかせて、内記は供男の草鞋わらじようのものを借りてつけた。
 宮のおそばへまいって山荘の事情をお話し申し上げ、侍従を伴って来たことをお知らせしたが、お話しになる場所というようなものもなくて、田舎家の垣根かきねの雑草の中にあふりというものを敷いて、そこへ宮をおおろしした。宮もこんな所で災厄さいやくにあって終わる運命で自分はあるのかもしれぬとお思われになり非常にお泣きになった。心の弱い者はましてきわめて悲しいことであるとお見上げしていた。どんな仇敵きゅうてきでも、鬼であっても、そこなえまいと見える美貌びぼうをお持ちになるはずである。しばらく躊躇ちゅうちょをあそばしてから、
「ちょっとひと言だけ話をすることもできないのだろうか。どうして今になってそんなに厳重に見張るのだろう。そばの者がどんなことを言ってあの方の自由意志を曲げさせたのか」
 と侍従へ仰せられた。山荘内のことをくわしく申し上げて、
「またおいでの思召しのございます前からおっしゃってくださいまして、私どもにできますことをさせてくださいませ。こんなもったいない御様子を拝見いたします以上、私は自分を喜んで犠牲にもいたしまして、よろしい計らいをいたします」
 と侍従は申した。御自身も人目をはばかっておいでになるのであるから、恋人をだけお恨みになることもおできにならなかった。
 夜はふけにふけてゆく。初めから吠えかかった犬はそれなりも声も休めずに騒がしくく。従者がそれを追いかけようとすると、山荘のほうでは弓のつるを鳴らし、荒武者の声で「火の用心」などと呼ぶ。落ち着かぬお心から帰ろうとあそばしながらも、宮のお心は非常に悲しかった。

 

紫式部 與謝野晶子訳 源氏物語 浮舟