海人・海士 あま 海女の玉取り物語 あまのたまとりものがたり

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海士 月岡耕漁

海人(あま)

昔、藤原淡海公と契って男子を産んだ一人の海人が、海底に潜り、自らの命とひきかえに、竜宮に奪われていた宝珠を取り戻した。その時の約束で、その男子は藤原の家の跡継ぎとなり、房前の大臣と名のった(『讃岐国志度道場縁起』などの志度寺縁起)。

房前の大臣(子方)は従者(ワキ・ワキツレ)を従え、亡母の追善のために志度の浦へ行き、出会った海人(シテ)から、面向不背の玉のことや、自分の出生の事情を聞く。房前が自らを名のり、海人は玉を竜宮から取り戻したさまを仕方話で語った後、自分が母であると告げ、弔いを頼んで姿を消す(中入)。亡母の手紙を読み供養を行う房前の前に、竜女となった亡母(後シテ)が現われ、法華読誦の功徳による成仏を喜ぶ。金春権守が演じた古作の能(『申楽談儀』)。

 

『岩波講座 能・狂言 Ⅵ能鑑賞案内』岩波書店 1989

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海士 月岡耕漁

海士 あま

房前の大臣(藤原房前、子方)は亡母が讃州志度浦の海女であったことを知り、追善のために海を渡って下向し、浦の海女(前ジテ)にあって母の死に至る経緯を聞く。

海女は「唐の高宗皇帝の后となった淡海公藤原不比等)の妹が、氏寺である興福寺へ三種の宝を送ったが、面向不背の珠が志度浦の沖で竜王に奪われてしまったので、淡海公は身をやつして浦に下り、海女乙女と契って一子を儲けたうえで、海女に珠を取り戻してほしいと迫る。海女は一子を世継ぎにするという約束をとりつけ、命を賭して海底にもぐり、探しあてた珠を乳房の下をかき切って隠す。そして首尾よく珠を奪い返したのであるが、悪竜に五体を切り裂かれて死ぬ。しかし一子は約束通り淡海公の嗣子として成人した。今の房前の大臣がそれである」と語り、。自分こそその海女の幽霊であると打ち明け「魂黄壌に去って一十三年」云々の吟詠を記した手跡を渡して消え失せる。房前は深く感じ入って種々の追善供養を営んでいると、海女が竜女(後ジテ)となって現れ、『法華経』の功力によって成仏できたことを喜ぶ。

 

『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986  

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浅草奥山生人形 (竜宮玉取姫之図) 国芳

海女の玉取り物語は志度寺縁起の讃州志度道場縁起に記されている

海女の玉取り物語

その昔、唐に嫁いだ藤原鎌足の息女白光は亡き父の供養物として数々の宝物を兄の藤原不比等に届けようとしました。ところが、宝物を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、中国に二つとなき宝物「面向不背の玉」が龍神に奪われてしまったのです。

不比等はこの玉を取り戻そうと、身分を隠して志度の浦へやってきました。ここで漁師の娘であった海女と恋に落ちたのです。”房前”という男の子も授かり親子三人で幸せに暮らしていました。しかし、不比等志度の浦に来た理由を知った海女は、愛する夫のために玉を取り戻そうと死を覚悟で竜宮へ潜っていったのです。

海上で待つことしばし。海女の合図で命綱をたぐった不比等の前に現れたのは、見るも無惨な海女の姿でした。海女は間もなく、不比等に抱かれたまま果ててしまいました。しかし、玉は海女の命に代えて縦横に切った乳房の中に隠されていたのです。

その後、玉は奈良の興福寺に納められました。藤原家を継ぎ大臣にまで出世した房前は、やがて志度寺を訪れ千基の石塔を建立、小堂を大きな堂塔に建て替え、さらに法華八講を修めて、亡き母の菩提を弔ったということです。

 

さぬき市観光ガイド

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玉取り(海女と大蛸)国芳

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源氏雲浮世画合(げんじくもうきよゑあハせ)玉葛 玉取蜑 国芳

玉葛

恋わたる身はそれなれと玉かつら
いかなるすちをたつねきぬらん

玉の盃底なしとて 色に迷ふが玉のきず 出世をねがふ玉の輿 おくる玉章(たまづさ)たまかづら 玉の家号の玉揃ひ 玉を欺く顔(かんばせ)はあたりまばゆき光にて 龍の腮(あぎと)の玉よりも意(こころ)を得てこ七難けれ
填詞 花笠外史