夢浮橋・夢の浮橋 ゆめのうきはし【源氏物語 第五十四帖 宇治十帖の第十帖】
源氏物語画帖 夢浮橋 土佐派
(第二章 浮舟の物語 第四段 小君、薫からの手紙を渡す)
夢浮橋 土佐光信
小野にはいと深く茂りたる青葉の山に向かひて紛るることなく遣水の蛍ばかりを昔おぼゆる慰めにて眺めゐたまへり
(第一章 薫の物語 第五段 浮舟、薫らの帰りを見る)
源氏物語図屏風
ゆめのうきはし(夢の浮橋)
源物物語の最後の巻なり、薫の大将、恋ひ慕ふ手習の君の行方知れずなりて、その弟を召出し傍近く召遺ひ.手習の君の此世にあるよし聞き出し、文こま/"\と認め法の師とたづぬる道をしるべにておもはぬ山にふみまどふ哉とありしながらの手にで書き、尼となりし手習の君に送る、手習の君覧て心の内やるかたもなく哀しまれけるとなり、源氏我身の栄花を極め、その身も品高く生れ、光とさへいはれし身も、誰れが夢の浮橋と一ふしの嘆きに雲かくれ玉ふことを叙す、故に此巻を夢の浮橋とは名づくるなり。
第一章 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く
第三段 薫、僧都に浮舟との面会を依頼
第四段 僧都、浮舟への手紙を書く
いよいよ事実であったのかと薫は、小宰相から少し聞いた話から山へまで遠く僧都を尋ねて来たのではあるが、全然死んだと思っていた人が、確かにこの世に存在していたのかという驚きをまたも覚えて、夢の中の気持ちがし、心の打たれたことによって涙ぐまれるのを、高僧を前に置いてこんな弱さを見せるものでないと反省され、冷静なふうを作っていたが僧都には、薫の感じていることがわかり、これほどにも愛していた人を、生きていても死んだのと同じような尼の身に自分はしてしまったと過失をした気になり、罪を作ったという自責も覚えて、
「悪いものに魅入 られになったということも前生の約束事なのですよ。必ず高い家の子でおありになったのでしょう。前生のどんなあやまちでさすらいの身などにおなりになったのでしょうか」
と僧都は問うてみた。
「王族の端とまあいうほどの人です。私も妻として結婚をしたのではありません。あることが動機になって恋愛がそこへまで進んでしまった間柄でした。がしかし、そんなにまで人の好意にすがって養われねばならぬような待遇を私はしていたのではありませんのに、不思議に跡かたもなくなってしまったものですから、身を投げたかなどと、それによってまたいろいろな想像もしていたわけです。罪の軽くなる御処置をお取りくだすったのですから、安心のできたことと私は思うのですが、母親である人が非常に恋しがり悲しがっておりますから、それだけには知らせてもやりたく思いますものの、その結果長く隠しておいでになりました尼様の御本意に違い、断ち切れぬ親子の情で訪ねて行ったりすることになるかもしれぬと思われます」
などと薫は言ったあとで、
「御迷惑なことと思いますが、その坂本までいっしょにお下りくださいませんでしょうか。細かい事実を承ることができましたあとで、なおそのまま捨てておいてよい人では初めからなかったのですから、夢のようなことを、この話を承った時を機としても話し合いたいと私は思うのです」
こう言う様子に、その人を深く思うことのうかがわれるため、出家遁世 の姿になり、髪も髭 も剃 った僧たちでさえ恋愛の心のおさえられぬ者があるのである、まして女というものに戒行が保てるものかどうかあぶないものである、かえって罪に堕 すことに自分は携わってしまったと僧都は煩悶 した。そして、
「下山しますことは今日明日さしつかえます。日が変わりましたらまいりまして、あちらからお手紙をお差し上げになるように計らいましょう」
こう答えた。薫はたよりない気もするのであったが、ぜひなどとしいることは、にわかにあせりだしたことに見られて恥ずかしいと思い、それではと言って帰ろうとした。姫君の異父弟は供の中にいた。他の兄弟よりも美しいその子を大将は近くへ呼んで、
「これがその人と近い身内の者です。この少年をせめて使いに出しましょう、短いお手紙を一つお書きください。私とは初めからお言いにならずに、だれか尋ね求めている人があるということをお書きください」
と薫が言うと、
「そのお手引きをいたすことで私は必ず罪に堕 ちましょう。事実は申し上げたとおりです。もうあなたが今すぐお寄りになって、お話しになることをお話しになる、それは何の罪にもあなたのおなりになることではありません」
僧都はこう言うのであった。
第一章 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く
第五段 浮舟、薫らの帰りを見る
小野では深く
繁 った夏山に向かい、流れの蛍 だけを昔に似たものと慰めに見ている浮舟 の姫君であったが、軒の間から見える山の傾斜の道をたくさんの炬火 が続いておりて来るのを見るために尼たちは縁の端へ出ていた。
「どなたがお通りになるのでしょう。前駆の人がたくさんなように見えますね。昼間横川 の方へ海布 の引乾 を差し上げた時に、大将さんがおいでになって、にわかに饗応 の仕度 をしている時で、いいおりだったというお返事がありましたよ」
「大将さんというのは今の女二 の宮 のたしか御良人 でいらっしゃる方ですね」
などと言っているのも、世間に通じない田舎 めいたことであった。
あの人たちが言うように実際大将が通るのであろうかと浮舟が思っている時に、かつてこれに似た山路 を薫の通って来たころ、特色のある声を出した随身の声が他の声にまじって聞こえてきた。月日が過ぎれば過ぎるほど昔を恋しく思ったりすることは何にもならぬむだなことであると情けなく姫君は思い、阿弥陀仏 を讃仰 することに紛らせ、平生よりも物数を言わずにいた。
第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない
第四段 小君、薫からの手紙を渡す
皆で言い合わせて浮舟のいる
室 との間に几帳 を立てて少年を座敷に導いた。この子も姉君は生きているのだと聞かされてきているが、姉弟らしくものを言いかけるのに羞恥 も覚えて、
「もう一つ別なお手紙も持って来ているのですが、僧都のお言葉によってすべてが明らかになっていますのに、どうしてこんなに白々しくお扱いになりますか」
とだけ伏し目になって言った。
「まあ御覧なさい、かわいらしい方ね」
などと尼君は女房に言い、
「お手紙を御覧になる方はここにいらっしゃるとまあ申してよいのですよ。こうしてあつかましく出ていますわれわれはまだ何がどうであったのかも理解できないでおります。だからあなたから私たちに話してください。お小さい方をこうしたお使いにお選びになりましたのにはわけもあることでしょう」
と少年に言った。
「知らない者のようにお扱いになる方の所ではお話のしようもありません。お愛しくださらなくなった私からはもう何も申し上げません。ただこのお手紙は人づてでなく差し上げるようにと仰せつけられて来たのですから、ぜひ手ずからお渡しさせてください」
こう小君が言うと、
「もっともじゃありませんか、そんなに意地をかたく張るものではありませんよ。あなたは優しい方だのに、一方では手のつけられぬ方ですね」
と尼君は言い、いろいろに言葉を変えて勧め、几帳のきわへ押し寄せたのを知らず知らずそのままになってすわっている人の様子が、他人でないことは直感されるために、そこへ手紙を差し入れた。
「お返事を早くいただいて帰りたいと思います」
うといふうを見せられることが恨めしく、少年は急ぐように言う。尼君は大将の手紙を解いて姫君に見せるのであった。昔のままの手跡で、紙のにおいは並みはずれなまでに高い。ほのかにのぞき見をして風流好きな尼君は美しいものと思った。尼におなりになったという、なんとも言いようのない、私にとっては罪なお心も、僧都の高潔な心に逢って、私もお許しする気になって、そのことにはもう触れずに、過去のあの時の悲しみがどんなものであったかということだけでも話し合いたいとあせる心はわれながらもあき足らず見えます。まして他人の目にはどんなふうに映るでしょう。と書きも終わっていないで次の歌がある。
法 の師を訪 ぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかなこの人をお見忘れになったでしょうか。私は行くえを失った方の形見にそば近く置いて慰めにながめている少年です。とも書かれてあった。