宇治川合戦 うじがわかっせん・うぢかはかつせん 宇治川先陣 うじがわのせんじん・うぢかはのせんぢん【平家物語 巻九 宇治川先陣】 佐々木高綱 ささきたかつな(?-1214) 梶原景季 かじわらかげすえ(1162-1200)畠山重忠 はたけやましげただ(1164-1205)

www.instagram.com

宇治川先陣争圖 歌川貞秀

www.instagram.com

宇治川大合戦 一勇斎国芳

www.instagram.com

www.instagram.com

www.instagram.com

宇治川合戦図屏風 土佐派

うぢかはかつせん(宇治川合戦)

宇治川山城国にあり、寿永三年源範頼義経が頼朝の命を奉じて木曽義仲を京都に攻むるに当り、義仲は勢多宇治の二橋を撤して拒いた、佐々木四郎高綱、梶原源太景季の両人、宇治川に於て先陣を争う、即ち宇治川先陣争にして最も有名なる事実で、画とし描かるゝは概ねこの事である。是れより先、源頼朝に二名馬あり、生唼(いけずき)といい、磨墨(するすみ)という。生唼最も駿、梶原景季之を望みて得ず、景季磨墨を賜わる。已にして高綱後れて近江より至りて頼朝より生唼を賜わり先陣を約す。やがて宇治川に至るや、敵橋を去り水底に鹿角を布き綱を引きて備う、諸将未だ渉らざるに、景季高綱単騎小島崎より水に入る、景季先んず、高綱欺き呼んで曰く、おんみの馬の肚帯緩むと、景季即ち馬をとどめ肚帯を約す、その間に乗じ、高綱は流を載ちて先登し大声高綱先陣と呼ぶ、諸将次いて渉り義仲軍遂に敗る。

 

『画題辞典』斎藤隆

www.instagram.com

www.instagram.com

www.instagram.com

www.instagram.com

宇治川合戦之圖 歌川国芳

佐々木高綱 ささき-たかつな

?-1214 平安後期-鎌倉時代の武将。
佐々木秀義の4男。源頼朝の挙兵に兄定綱とともに参加し,各地に転戦。寿永3年(1184)梶原景季宇治川で先陣争いをした話は有名。左衛門尉に任ぜられ,長門守護となる。東大寺の再建につくし,建久6年(1195)高野山で出家。親鸞の弟子となって名を了智といったともいう。建保2年11月死去。近江出身。通称は四郎。法名は西入。

 

梶原景季 かじわら-かげすえ

1162-1200 平安後期-鎌倉時代の武将。
応保2年生まれ。梶原景時の長男。源頼朝につかえ,源義仲追討の宇治川の戦い佐々木高綱と先陣をあらそう。平氏との生田の森の戦いでも奮戦。のち頼朝の命で京都で源義経の動きをさぐる。幕府に謀反をくわだてた父と京都にむかう途中,正治2年1月20日駿河狐崎(きつねがさき)で討たれた。39歳。相模出身。通称は源太。

 

畠山重忠 はたけやま-しげただ

1164-1205 平安後期-鎌倉時代の武将。
長寛2年生まれ。畠山重能の子。母は三浦義明の娘。源頼朝につかえる。源義仲や平家の追討などではたらき,頼朝が京都へはいる際に先陣をつとめた。北条時政の娘(政子の妹)と再婚するが,時政の後妻牧の方らにはかられ,元久2年6月22日武蔵二俣川で戦死。42歳。武蔵男衾(おぶすま)郡出身。通称は庄司次郎。

  

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 

www.instagram.com

www.instagram.com

www.instagram.com

宇治川先陣争図 一勇斎国芳

将軍九郎御曹司川の端にうち出で水のおもてを見渡し人々の心を見んとや思はれけんいかがせん淀一口へや回るべきまた水の落ち足をや待つべきとのたまふ所に武蔵国の住人畠山庄司次郎重忠生年二十一になりけるが進み出でて申しけるはこの川の御沙汰は鎌倉にてもよくよく候ひしぞかし日頃しろしめされぬ海川のにはかに出で来ても候はばこそこの川は近江の湖の末なれば待つとも待つとも水ひまじ橋をばまた誰か渡いて参らすべき一年治承の合戦の時足利又太郎忠綱が渡しけるは鬼神か重忠まづ瀬踏みつかまつらんとて丹の党をむねとして五百余騎ひしひしとくつばみを並ぶる所に平等院丑寅橘の小島が崎より武者二騎ひつかけひつかけ出で来たり一騎は梶原源太景季一騎は佐佐木四郎高綱なり人目に何にとも見えざりけれども内々先に心をかけたりければ梶原は佐佐木に一段ばかりぞ進んだる佐佐木いかに梶原殿この川は西国一の大河ぞや腹帯の延びてみえさうぞしめ給へといひければ梶原さもあるらんとや思ひけん左右の鐙を踏みすかし手綱を馬のゆがみにすてて腹帯をといてぞしめたりける佐佐木その間にそこをつと馳せ抜いて川へざつとぞうちいれたる梶原たばかられぬとや思ひけんやがて続いてうち入れたり梶原いかに佐佐木殿高名せうどて不覚し給ふな水の底には大綱あるらん心得給へといひければ佐佐木太刀を抜き馬の足にかかりける大綱どもをふつふつと打ち切り打ち切り宇治川はやしといへども生数奇といふ世一の馬には乗りけり一文字にざつと渡いて向かへの岸にぞ打ち上げたる梶原が乗りける磨墨は川中よりのため形に押し流され遥かの下より打ち上げたりその後佐佐木鐙ふんばり大音声をあげて宇多天皇より九代の後胤近江国の住人佐佐木三郎秀義が四男佐佐木四郎高綱宇治川の先陣ぞや我と思はん人々は寄り合へや見参せんとてをめいてかく畠山五百余騎うち入れて渡すむかひの岸より山田次郎がはなつ矢に畠山馬の額をの深に射させよわれば川中より弓杖をついており立つたり岩波甲の手さきへざつと押しあげけれどもこれを事ともせず水の底をくぐつてむかへの岸にぞ着きにける上がらんとすれば後ろより物こそむずとひかへたれ誰そと問へば重親と答ふいかに大串かさん候ふ大串次郎は畠山には烏帽子子にて候ひけるがあまりに水が速うて馬をば押し流され候ひぬ力及ばでこれまで着き参つて候ふと言ひければ畠山いつもわ殿ばらは重忠がやうなる者にこそ助けられんずれと言ふままに大串をひつさげて岸の上へぞ投げ上げたる投げ上げられただ直り太刀を抜き大音声を揚げて武蔵国の住人大串次郎重親宇治川の先陣ぞやとぞ名のつたる敵も味方もこれを聞いて一度にどつとぞ笑ひける

 

平家物語巻九宇治川先陣