一ノ谷合戦 いちのたにのかっせん・いちのたにのかつせん【平家物語 巻九 逆落】

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一ノ谷合戦 国芳

いちのたにのかつせん(一ノ谷合戦)

一の谷は摂津国須磨村の西方に在り、寿永二年七月、平家の一族は、木曽義仲に追われて、一たび西国に走りしが、三年正月、屋島より摂津に移り此地に城を構えた。源範頼義経已に平家追討の命を承わり、京都を略し今や一の谷に迫る。範頼五万騎を以て大手に向い、義経二万騎を以て搦手に向う。平軍克く拒く、義経一の谷の後山鵯越に着し、険岨を越えて遽に攻む。平軍不意を襲われて周章敗走す、之を一の谷の戦という。源平合戦図中に画かるゝはいうまでもなく、屡々単独の画題となる。

 

『画題辞典』斎藤隆

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浮絵一ノ谷合戦逆落之図 勝春朗

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鵯越逆落平家落城梶原働図 五渡亭国貞

一の谷の戦い いちのたにのたたかい

1184年(元暦1)2月7日、摂津国一ノ谷(神戸市須磨区)で起こった源平の合戦。前年7月、安徳天皇を擁して西海に走った平氏一門は、源頼朝、義仲の確執に乗じて勢力を挽回、このころには旧都福原に東進し、東(生田森)、西(一ノ谷)に軍陣を構えて要害を固め、京都回復を目ざすに至った。頼朝は義仲を倒すやただちに平氏追討の院宣を請い、弟範頼に大手を、同義経に搦手をつかせた。一ノ谷は背後に険しい山峰を連ねて入口が狭く、もっとも堅牢な陣地であった。戦闘は一時混戦状態になったが、結局、義経鵯越の奇襲により、平氏軍は四国屋島に敗走した。この戦いで平氏一族の多くが討たれ、とくに熊谷直実に殺された平敦盛の話は有名。また清盛の息重衡も須磨で捕らえられた。

 

『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館

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鵯越坂落之図 春亭