鵜飼 うかい・うかひ

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鵜飼 鈴木春信

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鵜飼 川瀬巴水

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岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船 英泉 

うかひ(鵜飼)

(一)鵜を使用して魚を漁る一種の漁法である、現今長良川の鵜飼最も聞えてゐるが、昔は大和の吉野川、伊勢の盧城川、越前の叔羅川など聞えてゐた、鵜匠が鵜を使ふといふことは鎌倉時代から行はれたらしく徳川時代になつて陸盛になつた、鵜飼の時期は毎年五月十一日から十月十五日までゞ、使ふ鵜は海鵜である、長良川に於ける鵜匠の姿は頭巾を風折烏帽子のやうにかぶり、胸あてをかけ、腰簑を纒ひ手に桧縄を握る、船の舳には八尺ほどの柄に吊られた火皿の中に松明が紅蓮の焔を吐く、船篝、若しくは鵜篝と呼ぶ、鵜匠が一人で操縦する鵜の数は十二羽で、船は失の如き流れを右往左往に棹しつゝ舟子の掛声と共に鵜を放つ、鵜はその篝火の間を縫うて流れの中に活躍し魚を捕つては呑む、呑んだ魚は鵜の首輪に遮られて吐かせられる、鵜飼の起原は遠く神代からで『古事記』にはそれが見えてゐる。

 

(二)謡曲の一つ、江波左衛門の作、日蓮聖人甲斐の石和川で鵜づかひの幽霊を成仏させる筋で、シテは漁夫、ワキは日蓮上人、ツレが従者である、一節を引く。

「既に此夜も更け過ぎて、鵜使ふ頃になりしかば、いざ業力の鵜を使はん、「是は他国の物語、死したる人の業により、かく苦しみの憂き業を、今見る事の不思議さよ、「しめる松明ふり立てゝ、「藤の衣の玉だすき、「鵜籠を開き取り出だし、「島つ巣おろし荒鵜ども、「此河波にばつと放せば、「おもしろの有様や、底にも見ゆる篝火に驚く魚を追ひまはし、かづき上げすぐひあげ、障なく魚を食ふ時は罪も報いも後の世も忘れはてゝおもしろや。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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高祖御一代略圖 甲斐国石和川鵜飼亡魂化導 国芳

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日蓮上人石和河にて鵜飼の迷魂を済度したまふの図 芳年

当山の由緒
当山は、往昔文永十一年夏の頃高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠卿)の亡霊に面接し、之を済度し即ち法華経一部八巻六万九千三百八十余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場であります。
之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものであります。

鵜飼山遠妙寺

 

山梨県笛吹市石和町 日蓮宗鵜飼山遠妙寺の案内板

鵜飼漁翁は鵜飼勘助とも呼ばれ

鵜飼勘助物語として知られる

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能楽百番 鵜飼 月岡耕漁

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能楽図絵 鵜飼 月岡耕漁

鵜飼(うかい)

安房の国清澄を出て甲斐の国へ向かう旅の僧(ワキ、日蓮に擬す)が従僧(ワキツレ)とともに甲斐の国石和に着くと、鵜使いの老人(シテ)が現れる。この老人は以前、従僧を泊めたことがあった者であるが、禁漁を見つけられて水中に沈められたことを語り、亡者であると言う。僧は罪を懺悔するために鵜を使うようにと言い、老人は鵜を使って見せた後、月の出とともに消え去る(中入)。僧が法華経で弔うと、地獄の鬼(後シテ)が現れ、旅の僧を泊めた功徳によって鵜使いを極楽へ送ったと述べ、法華経を讃嘆し、僧へ供養することをすすめる。榎並左衛門五郎の原作を世阿弥が改訂した作(『申楽談儀』)

 

『岩波講座 能・狂言 Ⅵ能鑑賞案内』 岩波書店 1989