馬 うま 春駒 はるこま 白馬節会 あおうまのせちえ・あをうまのせちゑ
韓幹圉人呈馬
元 趙孟頫 趙雍 趙麟 吳興趙氏三世人馬圖 卷
騎馬武者像
馬 土佐広周
うま(馬)
馬は家畜中最も主要な動物で、牛に次いで古き歴史を有するものとせられ、農家にあつては耕作に欠くべからざるものである、或は速力の優れてゐる処から騎乗用とし、輓引力が強いので交通運搬用とせられ、軍用としても重き役目を有するの外、肉はまた食用に供せられ皮は各種の器具に用ひられてゐる、動物学上からは単蹄類の哺乳動物で、古代には五本の指を有したと称せられてゐるが、次第に進化して現今の馬の如く単一の趾のものとなつた、馬には種々の分類法があるが最も簡単な分類法としては、東洋馬と西洋馬と分けることが出来る、又馬には特別の呼び方がある、それは毛色から来てゐるもので、栗毛、青毛、鹿毛、河原毛、葦毛などがある、栗毛は全部赤褐色で濃淡があり、青毛は黒色、鹿毛は体毛褐色四肢の下部や尾鬘毛の黒いもの、月毛は黄白混合又は白色、河原毛は灰黄色、芦毛は幼時は黒く、年と共に白くなるもの、小さい図形の斑紋あるものは連銭芦毛と呼ばれてゐる。 馬は斯く人の生活に密接な関係を有するものなので従つて東西の芸術には種々の形式を以て現はれてゐる
『東洋画題綜覧』金井紫雲
牧馬図屏風 長谷川等伯
春駒遊子供と傘さし美人 鈴木春信
風流三つの駒 春駒 清長
板東菊松の春駒 石川秀芭豊信
春駒踊 方月堂奥村文角政信
春駒踊 喜多川歌麿
はるこま(春駒)
昔、年の始の祝とて馬の形を作り頭に戴き歌をうたひ、舞などをし、又は三味線太鼓で囃し馬の首を手で操り踊らせなどして金品を貰ひ歩いた一種の門附、又はそのうたふ歌、正月七日の白馬に擬するか、童子の騎つて遊ぶのは竹馬の遊戯と混じたものであらう。(大言海)
年の始に馬を作りて頭に戴き歌ひ舞ふ者あり、是を春駒と名づけて都鄙ともに有る事なり、是禁中にて正月七日白馬を御覧の事あり、かゝる事を下にも受けてし侍る事にや。(年中故事要言)
『東洋画題綜覧』金井紫雲
男踏歌 青馬の節会 北尾江翠
あをうまのせちゑ(白馬節会)
昔、正月七日宮中に行はせられた古き年中行事の一、『大言海』に曰く。
白馬節会、此儀式に初めは青毛馬を牽かせられき、馬は陽獣にして、青は青陽の春の色なりといふに起れる事なるべし、倭訓栞、『あをま、礼記に、春を東郊に迎へて青馬七尺を用ふと見えたり』、玉勝間、十三『貞観儀式には青岐馬とさへあり、初めは青馬を牽かせられたるに、後に白毛の馬となり、文には白馬と書きながら、語にはなほ古へのまゝにあをうまと訓めりしなり、陰暦正月七日に行はせられし節会、又、白馬の宴、此日先づ青馬御覧の儀式あり、馬寮の御監より、馬の毛附を奏聞す、これをあをうまの奏といふ、左右の馬寮の官人、あをうまの陣(春華門内)に並び、次第に七疋づゝ三度牽きわたす、主上正殿に出御ありて、御覧ぜらる、春の陽気を助くるなりといふ、然る後に節会あるなり。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
『年中行事大成』 正月七日白馬御節会圖 速水春暁斎
早稲田大学図書館古典籍総合データベース
白馬節会
「あおうまのせちえ」と読み、正月七日に行われる。古くは、この日に宴のみが行われ、それは奈良時代以前より文献にみえる。まず、「日本書紀」に「景行天皇五十一年春正月戊子(七日)、招群臣卿而宴数日矣」とあるのをはじめとして
(中略)
青馬の初見はかなり遅れ、「万葉集」二十に天平宝字二年、大伴家持の歌に「水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可芸利奈之等伊布」(水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人はかぎり無しといふ)とあるのをはじめとする。
(中略)
青馬節会の起源はシナにもとめられるものであることはいうまでもない。すなわち、「年中行事秘抄」引用の「帝皇世紀」には、
高辛氏之子、正月七日恒登崗、命青衣人、令列青馬七疋、調青陽之気、馬者主陽、青者主春、崗者万物之始、人主之居、七者七曜之清徴、陽気之温始也、
とあって馬を陽とする陰陽思想、青と春とを結びつける五行思想からの行事であることがわかる。また、「師光年中行事」引用の「礼記」にも、
迎春於東郊、以青馬七疋、註云、七少陽之数也、時改正月、少陽也、青春也、馬為陽、故用七疋也、
とある。したがって青馬はシナ行事の渡来のまま行っていたことは明らかではあるが、村上天皇のころより、青馬を白馬と書くようになり、白馬と書いても、やはり「アヲウマ」とよんでいるのである。
(中略)
用いた馬はやはり天暦以後といえども同じ色の種類のものであったことはいうまでもない。ただ青に中心を置いていた色彩感が白に中心をおくように変わったにすぎないのである。
(中略)
これは、おそらく日本民間で行っていた風習が積極的に宮廷に採用されたよい例であろう。すなわち青馬節会も村上天皇のときにいたり、いままで陰陽五行説にもとづく大陸行事の輸入のまま行われていた儀式が、古くから日本民間で行われていた神聖なものに白馬を用いるという思想によって、意識的に改められたものであろうとおもわれる。
『平安朝の年中行事』 山中裕 塙書房 1972