漢織呉織 あやはとりくれはとり

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月耕随筆 縫乃工 呉織穴織 尾形月耕

あやはとりくれはとり 漢織呉織

応神天皇の御宇、はじめて漢土から来朝した織女のこと、『応神紀』に曰く

三十七年春二月戊午朔、阿知使主〈あちのおみ〉、都加使主〈つかのおみ〉を呉に遣して、縫工女〈ぬひたちめ〉を求めしむ、爰に阿知使主等高麗国に渡りて呉に達〈いた〉らむと欲し則ち高麗に至り、更に道路〈みち〉を知らず、道を知る者を高麗に乞ふ、高麗王乃ち久礼波久礼志二人を副へて導者〈しるべ〉を為す、是に由りて呉に通ることを得たり、呉王是に於て工女兄媛、弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与へぬ。

又『雄略紀』に曰く、

十四年春正月丙寅朔戊寅、身狭村主青等、呉国の使と共に呉の献れる手末才伎、漢織呉織及衣縫兄媛、弟媛を将て住吉津に泊る

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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古今名婦伝 呉織 豊国

呉織(くれはとり)

呉織は呉の國の女なり呉は今の南京なり

応神天皇四十一年に呉の國より

皇朝に貢進(みつぎたてまつ)る縫姫(ぬいひめ)四人あり

兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)と呼びて

衣縫(きぬぬい)の業に精(くわし)く錦織ることに極て巧みなり

禽獣(とりけもの)花卉(はなのたぐひ)意のままに織いだす

兄媛一人を筑紫宗像の神にたてまつり餘の三人は摂津國武庫に至る

今同國池田に呉織穴織を神に祭りて蕞祠(やしろ)なり

九月十七日十八日祭礼あり

呉織・漢織(クレハトリ・アヤハトリ)

   池田には応神天皇のころ、大陸から呉織・漢織の2人の織り姫がこの地に渡り、織物や染色の技術を伝えたという伝説が残っています。
   この伝承は、一般には、『日本書紀』応神(おうじん)天皇37年条に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして縫工女(きぬぬいめ)を求め、呉の王から呉織・漢織らを与えられたという記述を題材にしたものだと考えられています。

 ※ 『日本書紀』 「巻第十  誉田天皇(ほむたのすめらみこと)応神天皇」「巻第十四  大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)雄略(ゆうりゃく)天皇」に、この縫工女招致に関する伝承が収められています。 『国史大辞典 4 き‐く』によると、「ただし、応神紀・雄略紀のこれらの織工女の記事は、同じ内容のものを分けて記したか、あるいは前者は後者の記事の混入ではないか、といわれる。」とあります。

 ※呉織は呉服、漢織は穴織とも書きます。「はとり」は機織の意です。(『国史大辞典 4 き‐く』p952 くれはとり・あやはとり)(『日本歴史大辞典 1 あ‐う』)

   池田市内には、この機織伝承ゆかりの旧跡が各所に残されています。2人の織姫を乗せた船が着いたところが<唐船が淵>(新町~木部町、猪名川のカーブした辺り)、糸を染めた井戸が<染殿井>(満寿美町)、絹を干したのが<絹掛の松> (畑)、機を織ったのところが<星の宮>(建石町)、2人が葬られたとされる墓が<梅室・姫室>(槻木町~室町あたり)、そして呉織が祀られたのが<呉服神社>(室町)、漢織が祀られたのが<伊居太神社>(綾羽)とされています。
   池田の市章はこの伝説を元にしています。外側の井桁は<染殿井>を、内側の糸巻きは織り姫たちが織物に使った糸巻きを表しています。

   『池田市史 概説篇』には次のような記述があります。「呉織・漢織が池田に来て織物技術を伝えたとされていますが、日本書紀にはこのような記述はなく、この伝承がいつ、なぜ、どのようにして誕生したのか、はっきりしたことはわかっていません。」

 

池田市立図書館