一遍 いっぺん・いつぺん(1239-1289) 空也 くうや(903-972) 踊念仏 おどりねんぶつ・をどりねんぶつ

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一遍上人絵伝 法眼円伊

いつぺんしやうにん(一遍上人

一遍、幼名を松寿丸と呼び、長じて通秀と云ふ、出家して随縁、後、智真と改む、世に遊行上人といふ、姓は河野氏其先は孝霊天皇から出てゐる、天皇第三子を伊与の皇子と称し、第二世小千皇子に至り姓を賜ふ、廿世通広は即ち父である、四条天皇の延応元年生れ、七歳にして縁教律師に学び、十歳母を喪ひ十五歳の時祝髪し、名を随縁と呼んだ、後ち智真と改む、更に師命により叡山慈眼僧正に師事すること十二年、教観顕密の奥義を究め、後太宰府西山派聖達に浄教を学ぶ事十一年、其蘊奥を極め、建治元年十二月紀州牟婁郡熊野本宮に百日参籠し誓て曰く、我一切衆生を度せんと欲し融通念仏を勧進す、此教仏意に違はず、神慮に背かずば示現を賜へと、神、要偈を授て六字名号、『一遍法十界依正、一遍体万行離念、一遍証人中上上妙好華』と、茲に於て名を一遍と改め、神勅に任せ本願念仏の金札を荷ひ諸行を遊行し、貴賎道俗を勧化す、故に以て世人これを遊行上人と呼ぶ、正応二年八月錫を兵庫観音堂に移し、一日縄床に座して最後の法門を談じ、自著の書冊を火中に投じ二十三日晨朝阿弥陀経を読み畢て入寂す。時宗の開祖として尊崇せらる。勅諡円照大師。(国史大辞典)

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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一遍上人絵伝 法眼円伊

一遍 いっぺん
[生]延応 1(1239).2.15. 伊予
[没]正応2(1289).8.23. 播磨
鎌倉時代の僧。時宗の開祖。 10歳で母に死別し,その後天台を学び,13歳で九州の法然浄土教の流れである西山派の聖達に師事。 36歳のとき (1274) ,四天王寺高野山に詣で,熊野で熊野本宮証誠殿に参籠していたところ,「信,不信をえらばず,浄,不浄をきらはず,その札をくばるべし」という啓示を受け,念仏の札を配る念仏賦算の時宗が成立した。以後,13歳のとき改名した智真を一遍と改め,念仏賦算のため,諸国遊行の旅に出た。遊行上人 と呼ばれたゆえんである。一遍は,念仏の器には上,中,下の3種類があるといい,最も望ましい像は,妻子をもち家にありながら,しかもそれに執着しないで往生できるもの,それに対し,最も望ましくない形は,それまでの既成仏教のように,妻子も家も万事捨離した出家の形で往生すること,とした。ところで,一遍は妻子や家への執着から離れることができないので,万事を捨てて往生しようとした。ここに,理念のうえでは従来の価値観を逆にしたが,その実践では従来への復古となった。そこに,断食行とか入水往生などという古代仏教の復帰をみるのも当然の理といえる。死の2週間前頃,「一代聖教皆つきて,南無阿弥陀仏になりはてぬ」と述懐し,所持していたすべての書籍などを焼捨てた。そのため,一遍の著作は今日発見されていない。弟子たちの聞き書きである『播州法語集』『一遍聖絵』などによって,その思想を知るしかない。一遍の時宗はそののち,急速に全国に流布盛行したが,真宗蓮如の段階で急速に衰えた。その理由を教理のないこととみる説がある。一遍は 10世紀の空也を先達とし,踊り念仏をすすめた。また,「捨聖 (すてひじり) 」とも称された。
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空也上人木像 集古十種

くうや(空也

空也天台宗の僧なり、京都の人。幼にして尾張国分寺に入り、自ら空也と称す。遊歴を好み、天下の名山殆んど至らざるなく、過ぐる所道路を修め、橋梁を架し、廃寺を越し、或は井戸を穿つ、特に奥羽二州の教化には最も力むる所あり。天慶二年京都に入り、行閙の間に勧めて弥陀号を唱えしむ、時人、市上人と呼ぶ。天暦二年叡山に登り、延昌に受戒し、光勝と改名す。五年京都疫病あり、死者算なきを見るや、惻然志を立て、自ら高さ十一尺の十一面観音の像を刻みて之に祈り。洛東に寺を建てゝ安置す、六波羅密寺是れなり。天祿三年九月十五日寂す、寿七十、後世空也上人と呼び、其の命日には、空也忌営まれ、空也念仏行わる。

 

『画題辞典』斎藤隆

 

 

空也 くうや

[生]延喜3(903)
[没]天禄3(972)
平安時代の僧。こうや上人,光勝,市聖 (いちのひじり) ,阿弥陀聖などとも呼ばれる。時宗の一遍は空也を「わが先達」として敬慕した。比叡山を中心に行われたいわゆる「山の念仏」に対し,一般庶民のなかに埋没しつつ,念仏を広めた。その布教は,社会福祉的事業を通じ,また鉦 (かね) をたたきつつ,当時の民衆の親しみやすい念仏の形式をつくりだすことによってなされたといわれる。空也についての詳細は,源為憲の『空也誄 (るい) 』,慶滋保胤の『日本往生極楽記』に記されている。

 

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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01874/bunko06_01874_0007/bunko06_01874_0007_p0037.jpg

空也堂 踊念仏

拾遺都名所図会 秋里湘夕 竹原春朝斎 早稲田大学図書館

くうやねんぶつ(空也念仏)

鉢叩きともいふ、京都の空也堂を本山とし住持の上人のみ清僧にて徒弟は優婆塞なり、上人頭に鹿角をつけたる杖を執り、弥陀の名号を唱へ徒弟瓢を叩き鉦を鳴らし、和讃頌文を誦しながら歓喜し踊る、これを踊躍と云ひ、俗にをどり念仏といふ。(大言海

鉢叩きの歌、諸法実相ときく時は、峰のあらしも法の声、万法一如とくわんずれば、浜の螻蟻も仏なり、仏は二世にましませば、かゝるひくわんはたのみなし、ひくわん教主の釈迦だにも、ねはんの空にかくれます、ましてや凡夫の愚にて、いかで無常をのがるべき、無常眼の前にきて火宅を出よとすゝむれど、名利の心つよければ聞て驚く人もなし、人は男女にかはれども、赤白二つに分られて生ずる時も唯ひとり、死するやみぢに友もなし、東岱前後の夕煙北嶺朝暮の草の露、おくれ先だつ世のならひ、只何事も夢ぞかし、となふれば仏も我もなかりけり、南無阿弥陀仏/\、空也上人御法事。(嬉遊笑覧)

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

 

 

踊念仏 おどりねんぶつ

多数の人が念仏を唱えながら踊り,三昧の境地に入る所作。信心を得て,往生する喜びがおのずと踊りとなって現れる。これは平安時代中期,空也が京の市屋や辻で始めたものであったが,平安時代末期以降,融通念仏や浄土宗でもその一部で行われ,広がっていった。鎌倉時代中期になると一遍が現れ,これを念仏帰依の所作としてすすめたので,踊念仏は念仏者の遊行,時宗の教勢拡大とともに急速に広まった。一遍の念仏は,称名そのもののなかに往生の因を認めるという徹底した口称念仏で,その踊念仏には民族宗教的集団性と呪術性があるといえる。室町時代以降は民衆のなかで芸能化され,やがて壬生狂言,六斎念仏 ,泡斎念仏 を生み出すにいたった。

 

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