歌比丘尼・唄比丘尼 うたびくに 熊野比丘尼 くまのびくに
六玉川 千鳥の玉川 陸奥名所 鈴木春信
夕されば汐風こしてみちのくの野田のたま川ちどり鳴くなり 能因法師(新古今)
二人比丘尼 鈴木春信
好色訓蒙図彙 比丘尼
人倫訓蒙図彙 うたびくに
うたびくに(歌比丘尼)
歌比丘尼は江戸時代の売春婦の一種、万治頃から享保の頃まであつた、頭を尼のやうにし繻子羽二重の投頭巾をかぶり、幅広の帯を締めて市中を徘徊し、表面は熊野牛王を売りひんざさらを乗せて唄など歌ひ歩いたといふ、『人倫訓蒙図彙』に曰く
歌比丘尼は、もとは清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣をしやくして歯を磨き、頭をしさいに包みて小歌を便に色を売るなり、巧齢歴たるを御寮と号し、夫に山伏を持女童の弟子あまたとりてしたつるなり、都鄙に有り、都は建仁寺薬師の図子に伝る、皆これ末世の誤なり。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
世渡風俗圖會 熊野比丘尼
住吉神社祭礼図屏風
熊野比丘尼 くまのびくに
勧進比丘尼、あるいは絵解比丘尼、はたまた歌比丘尼と呼ばれた彼女たちは、毎年暮れから正月にかけて熊野に年籠りし、伊勢に詣でた後、諸国を巡り歩くか、一定の地域で、熊野牛王(烏牛王とも)や護符を配札し、災難除けのお守りとして梛(なぎ)の葉を頒布する際に、絵解きをしたり、物語をしたり、簓(ささら)を摺りながら歌を歌ったりして、熊野信仰の教宣に大いに務めた。
(中略)
やがて絵解きにとって代わって、小歌を歌うことと共に、売色が表立って行われるようになったのである。そして、幕末以降、特に明治初年の廃仏毀釈のために、彼女たちは全く姿を消したのであった。
『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 1986
盲文画話 浅草門跡前 売比丘尼
往古より衣着ざる比丘尼の地獄極楽の巻を持ち歩行老婆婦女等にその巻を絵解して極楽地獄の有様を物語して渡世せり是を絵解比丘尼と唱しが
後に熊野の牛王を持ち来たり入用の者へ売是を熊野比丘尼と云此比丘尼売色と変して専ら身を売事と成
其頃唄比丘尼とて異風なる頭巾冠り紅粉をほどこし幅広の帯胸高に結び下駄をはき美敷甲掛して左に牛王入し箱を抱へ右にはびんざさらと云ふ物を指にはめ是を鳴らして唄を諷ひ町々の門へ立ち手の内を貰ふ物を乞ふにチトクワンと云
是を修行成といへども其比丘尼直ぐに売者にて浮れ男共是を買ふて楽む茶屋或は番屋抔にて出合しか次第に売色して甚以流行せり
既に宝暦末年葺屋町芝居市村座にて常磐津文字太夫浄瑠璃富士の菅笠とやらむ文後節にて若太夫市村亀蔵並に中村富十郎勤し所作事に富十郎か出立則其頃の唄比丘尼の風俗を其の儘に撮したる成
弥其頃より日増しに流行して浅草門跡前本所御竹蔵後安宅大橋向抔に比丘尼屋出来親方をオリヤウと号して専色を商ふ
其内浅草門跡前は別して大造と成盛んに繁昌せしは宝暦年間しきりに栄へ比丘尼の全盛云量りなし
比丘尼屋も立派なる家にて五人十人も抱へ置店は品川抔の売女屋に似て奥を浅く仕切其前に銘々莨盆を控へて並び居る揚屋も出来て客を迎ひに比丘尼道中する体吉原仲の町の如し
其姿は紅粉あくまで粧ひ黒繻子にてしたる異形の頭巾に帽子針とて銀にて色々の簪をさし左右のもみあげの毛を残し垂れ縫の襠同下着巾広帯前にて胸高に結び塗下駄をはき褄を取て目八分に向ふを見張振出したる容体昼三の太夫におさ/\劣らず
十二才より七八才まての小比丘尼に角頭巾着せ弐人対の衣装にて左右に連跡より十七八より廿一二頃の比丘尼襠なし同下駄にて牛王箱を抱へ行其跡よりは五六十才位の老比丘尼付添きほいたる男弐人も三人も付ていかめしく郡集を分け道中の有様目を驚かせり
瀬川妙玄菊次郎何/\市松何/\抔其頃の芝居若女形に表して仇名され全盛の比丘尼多し又端女郎といふへき比丘尼数多也
安宅大橋辺の比丘尼は左ほど大造にてはなけれども是も昼夜繁昌せし成揚代はいかほどにや幼童の折なれば聴ても忘れたり
如斯にて天明頃まても繁昌したりしが次第にすたれはて門跡前は早く無くなり本所のみ栄ひ居しが程なく衰微して跡なく大橋向ふのみ安永頃までかすかに残り有しかいつしか絶果にき
唄比丘尼も同し頃止たり只十二三才より下の小比丘尼曲物の小桶に勧進柄杓を持唄を諷ひ手の内を貰ふ者朝々は町々を夥しく歩行
そぞろなる小唄を諷ひてヲヤンナと云ふて門へ立しも安永末には小比丘尼まて跡なく無く成つて今は衣着ざる比丘と云ふもの絶てなし
大勢の比丘尼何と成けむ還俗せしか又直に売女に成しか其頃は坊主返りの女さぞかし多く有りつらむが知らず門跡前本所大橋都て今は跡方もなし少の間に替はる事妙なるものなり
『盲文画話』
初代中村富十郎の比丘尼 初代坂東三津五郎の富士太郎 勝川春章
花吹雪富士菅笠 桔梗染女占
風流人倫見立八景 びくにのばんしやう 磯田湖龍斎
青楼万歳俄 八月ひくに たい かつ いね 子付 りん うた 鳥文斎栄之