朝比奈 あさひな・あさいな(1176-没年不詳)
朝比奈三郎義秀は鎌倉時代の武将
和田義盛の三男で、安房国朝夷郡に生れたので朝夷三郎と呼び、俗に朝比奈に作る、勇武無双と称せられ、嘗て将軍頼家小坪浜に遊び義秀の善く泳ぐといふのを聞き、召して其技を見る、義秀泳ぐこと数回忽ち水中浸して見えなくなつたかと思ふと、巨大な鰐三頭を捕へて現はれた、人々その猛勇に愕く、建保元年、父義盛北条氏の積悪を怒り、之を除かうとして兵を挙ぐ、義時怖れて府中に走り、実朝を挟み諸将に令を伝ふ、義盛幕府に迫るや義秀は進んで南大門を破り、向ふ処敵なく北条朝時を傷け、足利義氏を追ひ、次で馬首を廻らし若宮小路で武田信光に遭ひ之を討たうとしたが信光の子の信忠、年僅かに十三歳が父を扶けて義秀に刃向つた孝心に感じてこれを見棄て、更に小物資政を仆しその鋒に罹るもの命を殞さぬものがない、既にして義盛の一族敗るゝや、義秀五百の残兵を率ひて安房に走つたが、その終る処を知らず、或は高麗に走つたともいふ、一説に義秀は木曽義仲の妾巴の生む処であると。(大日本史、豪雄言行録)
その勇猛が歌舞伎劇などに脚色され、その現はれの一つが朝比奈島廻りの伝説となつたりしてゐる。
『東洋画題綜覧』金井紫雲
朝比奈小人嶋遊 歌川国芳
あさひなよしひで【朝比奈義秀】
1176(安元2)?‐?
〈あさいなよしひで〉ともよむ。鎌倉前期の武将。和田義盛の三男。母は木曾義仲の妾巴御前という。安房国朝夷(あさい)郡で育ち,朝比奈三郎と称す。膂力無双で水泳にも長じ,将軍源頼家の前でサメ3尾を手捕りにしてみせたという。1213年(建保1)の和田合戦では,和田軍の将として将軍御所へ突入し勇戦奮闘したが,敗れて海路安房へ逃げ行方をくらました。このとき《吾妻鏡》によれば38歳。
朝比奈三郎鮫退治 歌川国芳
和田合戦 朝夷三郎義秀 猛勇怪力之図 歌川国芳
和田合戦義秀惣門押破 歌川国芳
見立草摺引 鈴木春信
草摺引 くさずりびき
歌舞伎(かぶき)演出の一系統、またはこれに基づく舞踊劇の通称。『曽我物語』の一節、および幸若舞『和田酒盛』にある、曽我五郎が兄十郎の危難を救おうと鎧をつかんで駆け出すのを、小林朝比奈が引き留めるが、引き合ううちに2人とも大力なので、鎧の草摺がちぎれるという話を脚色したもの。1688年(元禄1)初めて歌舞伎に扱われ、98年5月江戸・中村座で初世市川団十郎の五郎、初世中村伝九郎の朝比奈によって演じられた荒事の『兵根元曽我(つわものこんげんそが)』が演出の基盤。
狂言 朝比奈 (あさいな)
地獄が飢饉になり、閻魔王みずから六道の辻に出て、罪人(亡者)を待っているところに、朝比奈三郎義秀が来かかる。閻魔王は懸命に責めるが、相手はいっこうに動じない。罪人が朝比奈と知った閻魔王は、和田戦(わだいくさ)の様子を語らせる。朝比奈は仕方話で語り、閻魔王を思うままに引き回し、そのあげくに七つ道具を持たせて極楽へ案内させる。
朝日奈嶋巡り 歌川国芳
朝比奈三郎義秀万国すもふの図 歌川国芳
朝比奈島遊び 歌川貞秀
浅草金龍山境内において大人形ぜんまい仕掛の圖 玉蘭斎貞秀
『藤岡屋日記』によれば、弘化四年(1847)三月、浅草奥山に籠細工の巨大な朝比奈の見世物が出されていたが、浅草寺の裏に屋敷があった六郷兵庫頭が登城しようとしたところ、浅草寺の奉納の額などが邪魔になり通路変更を余儀なくされ、このことを恨んだ兵庫頭が、奥山の広大な見世物小屋のせいで江戸城内に火災が起きたとしてもお城が見えず駆けつけることができないと老中に言いつけたため、朝比奈大細工の小屋が取り払われたという
朝比奈義秀小人遊 一勇斎国芳戯画