蜻蛉 かげろう・かげろふ【源氏物語 第五十二帖 宇治十帖の第八帖】
源氏物語画帖 蜻蛉 土佐派
(第四章 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む 第四段 薫、宇治の過去を追懐す)
蜻蛉 土佐光信
白き薄物の御衣着替へたまへる人の手に氷を持ちながらかく争ふをすこし笑みたまへる御顔言はむ方なくうつくしげなり
(第五章 薫の物語 明石中宮の女宮たち 第二段 六条院の法華八講)
かげろふ(蜻蛉)
源氏物語の一巻なり。浮舟、宇治の川にて失せられて後その父母常陸守夫妻の嘆限りなく。
ありと見て手にはとられすみれはまた行方も知らず消えしかげろふ
と詠まる。残りしふすま、几帳をとりあつめ、むかいの原にて送りして行方もなき煙りとし、弔はせらる、之を蜻蛉の巻という。
かげろう〔かげろふ〕【蜉=蝣/蜻=蛉】
【1】
1 《飛ぶ姿が陽炎(かげろう)の立ちのぼるさまに似ているところからの名》カゲロウ目の昆虫の総称。体は繊細で、腹端に長い尾が2、3本ある。翅(はね)は透明で、幅の広い三角形。夏、水辺の近くの空中を浮かぶようにして群れ飛ぶ。幼虫は川中の礫(れき)上や砂中に1~3年暮らす。成虫は寿命が数時間から数日と短いため、はかないもののたとえにされる。糸遊(いとゆう)。
2 (蜻蛉)トンボの古名。《季 秋》 「―なんどのやうにやせおとろへたる者よろぼひ出できたり」〈平家・三〉
【2】
(蜻蛉)源氏物語第52巻の巻名。薫大将、27歳。浮舟の失踪(しっそう)と、その後の薫を描く。
第一章 浮舟の物語 浮舟失踪後の人びとの動転
第四段 乳母、悲嘆に暮れる
姫君の最後が普通の死でないことをほかへ
洩 らすまいとしていても、自然に事実は事実として人が悟ってしまうことであろうと思い、こんな会談を長くしていることも避けねばならぬと思う心から時方を促して去らしめた。
第三章 匂宮の物語 匂宮、侍従を迎えて語り合う
第一段 四月、薫と匂宮、和歌を贈答
月が変わって、今日は宇治へ行ってみようと薫の思う日の夕方の気持ちはまた寂しく、
橘 の香もいろいろな連想 を起こさせてなつかしい時に、杜鵑 が二声ほど鳴いて通った。「亡 き人の宿に通はばほととぎすかけて音 にのみなくと告げなん」などと古歌を口にしたままではまだ物足らず思われ、二条の院へ兵部卿の宮の来ておいでになる日であったから、橘の枝を折らせて、歌をつけて差し上げた。忍び音 や君も泣くらんかひもなきしでのたをさに心通はば
宮は中の君の顔の浮舟によく似たのに心を慰めて、二人で庭をながめておいでになる時であった。言外に意味のあるような歌であると宮は御覧になり、橘の匂 ふあたりはほととぎす心してこそ鳴くべかりけれなんだかかかりあいのあるようなことが言われますね。とお返事をあそばした。
第四章 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む
第四段 薫、宇治の過去を追懐す
宮の夫人があの姫君のことを初めに戯れて
人型 と名づけて言ったのも、川へ流れてゆく前兆を作ったものであったかと思うと、何にもせよ自分の軽率さから死なせたという責任も感じられた。母の現在の身分が身分であったから、葬式なども簡単にしてしまったのであろうと不快に思ったこともくわしく聞いたことによって、そうした想像をしたことが気の毒になり、母としてはどんなに悲しがっていることであろう、あの身分の母の子としてはりっぱ過ぎた姫君であったのを、陰のことは知らずに自分との縁により、姫君が煩悶をしたこともあったとして悲しんでいることかもしれぬなどと同情がされるのであった。穢 れというものはこの家にないはずであるが、供の人たちへの手前もあって家の上へは上がらず車の榻 という台を腰掛けにして妻戸の前で今まで薫は右近と語っていたのである。これを長く続けているのも見苦しく思われて茂った木の下の苔 の上を座にしてしばらく休んでいた。もう山荘に来てみることも心を悲しくするばかりであろうから、今後来ることはないであろうと思い、その辺を見まわして、われもまたうきふるさとをあれはてばたれ宿り木の蔭 をしのばん
こんな歌を口ずさんだ。
第五章 薫の物語 明石中宮の女宮たち
第二段 六条院の法華八講
第三段 小宰相の君、氷を弄ぶ
蓮 の花の盛りのころに中宮は法華 経の八講を行なわせられた。六条院のため、紫夫人のため、などと、故人になられた尊親のために経巻や仏像の供養をあそばされ、いかめしく尊い法会 であった。第五巻の講ぜられる日などは御陪観する価値の十分にあるものであったから、あちらこちらの女の手蔓 を頼んで参入して拝見する人も多かった。五日めの朝の講座が終わって仏前の飾りが取り払われ、室内の装飾を改めるために、北側の座敷などへも皆人がはいって、旧態にかえそうとする騒ぎのために、西の廊の座敷のほうへ一品の姫宮は行っておいでになった。日々の多くの講義に聞き疲れて女房たちも皆部屋 へ上がっていて、お居間に侍している者の少ない夕方に、薫の大将は衣服を改めて、今日退出する僧の一人に必ず言っておく用で釣殿 のほうへ行ってみたが、もう僧たちは退散したあとで、だれもいなかったから、池の見えるほうへ行ってしばらく休息したあとで、人影も少なくなっているのを見て、この人の女の友人である小宰相などのために、隔てを仮に几帳 などでして休息所のできているのはここらであろうか、人の衣擦 れの音がすると思い、内廊下の襖子 の細くあいた所から、静かに中をのぞいて見ると、平生女房級の人の部屋 になっている時などとは違い、晴れ晴れしく室内の装飾ができていて、幾つも立ち違いに置かれた几帳はかえって、その間から向こうが見通されてあらわなのであった。氷を何かの蓋 の上に置いて、それを割ろうとする人が大騒ぎしている。大人 の女房が三人ほど、それと童女がいた。大人は唐衣 、童女は袗 も上に着ずくつろいだ姿になっていたから、宮などの御座所になっているものとも見えないのに、白い羅 を着て、手の上に氷の小さい一切れを置き、騒いでいる人たちを少し微笑をしながらながめておいでになる方のお顔が、言葉では言い現わせぬほどにお美しかった。非常に暑い日であったから、多いお髪 を苦しく思召すのか肩からこちら側へ少し寄せて斜めになびかせておいでになる美しさはたとえるものもないお姿であった。多くの美人を今まで見てきたが、それらに比べられようとは思われない高貴な美であった。御前にいる人は皆土のような顔をしたものばかりであるとも思われるのであったが、気を静めて見ると、黄の涼絹 の単衣 に淡紫 の裳 をつけて扇を使っている人などは少し気品があり、女らしく思われたが、そうした人にとって氷は取り扱いにくそうに見えた。
「そのままにして、御覧だけなさいましよ」
と朋輩 に言って笑った声に愛嬌 があった。声を聞いた時に薫は、はじめてその人が友人の小宰相であることを知った。とどめた人のあったにもかかわらず氷を割ってしまった人々は、手ごとに一つずつの塊 を持ち、頭の髪の上に載せたり、胸に当てたり見苦しいことをする人もあるらしかった。小宰相は自身の分を紙に包み、宮へもそのようにして差し上げると、美しいお手をお出しになって、その紙で掌 をおぬぐいになった。
「もう私は持たない、雫 がめんどうだから」
と、お言いになる声をほのかに聞くことのできたのが薫のかぎりもない喜びになった。まだごくお小さい時に、自分も無心にお見上げして、美しい幼女でおありになると思った。それ以後は絶対にこの宮を拝見する機会を持たなかったのであるが、なんという神か仏かがこんなところを自分の目に見せてくれたのであろうと思い、また過去の経験にあるように、こうした隙見 がもとで長い物思いを作らせられたと同じく、自分を苦しくさせるための神仏の計らいであろうかとも思われて、落ち着かぬ心で見つめていた。
第六章 薫の物語 薫、断腸の秋の思い
第五段 薫、弁の御許らと和歌を詠み合う
東の廊の座敷のあいた戸口に女房たちがおおぜいいてひそひそと話などをしている所へ薫は行き、
「私をあなたがたは親しい者として見てくださるでしょうか、女にだって私ほど安心してつきあえるものではありませんよ。それでも男ですから、あなたがたのまだ聞いていない新しい話も時にはお聞かせすることができるのですよ。おいおい私の存在価値がわかっていただけるだろうという自信がそれでもできましたからうれしく思っています」
こんな戯れを言いかけた。だれも晴れがましく思い、返辞をしにくく思っている中に、弁の君という少し年輩の女が、
「お親しみくださる縁故のない者がかえって私のように恥じて引っ込んでいないことになります。ものは皆合理的にばかりなってゆくものではございませんですね。だれの家のだれの子でございますからと申しておつきあいを願うわけのものでもありませんけれど、羞恥 心を取り忘れたようにお相手に出ました者はそれだけの御挨拶 をいたしておきませんではと存じますから」
と言った。
「羞恥心も何も用のない相手だと私の見られましたのは残念ですね」
こんなことを薫 は言いながら室 の中を見ると、唐衣 は肩からはずして横へ押しやり、くつろいだふうになって手習いなどを今までしていた人たちらしい。硯 の蓋 に短く摘んだ草花などが置かれてあるのはこの人らがもてあそんだものらしい。ある人は几帳の立ててある後ろへ隠れ、ある人は向こうを向き、ある者は押しあけられてある戸に姿の隠れるようにしてすわっているので、頭の形だけが美しく見えた。すべて感じよく思って薫は硯を引き寄せ、女郎花 乱るる野べにまじるとも露のあだ名をわれにかけめや
こう書いて、
「安心していらっしゃればいいのに」
と言い、すぐ近くの襖子 のほうを向いている人に見せると、相手は身動きもせず、しかもおおように早く、花といへば名こそあだなれをみなへしなべての露に乱れやはする
と書いた。手跡は、少ない文字であるが気品の見える感じよいものであるのを、薫は何という女房であろうと思って見ていた。今から中宮のお居間へこの戸口を通って行こうとして、薫の来たために出るにも出られずなった人らしく思われた。
第六章 薫の物語 薫、断腸の秋の思い
第九段 薫、宇治の三姉妹の運命を思う
宇治の姫君たちとはどれもこれも恨めしい結果に終わったのであったとつくづくと思い続けていた夕方に、はかない姿でかげろう
蜻蛉 の飛びちがうのを見て、ありと見て手にはとられず見ればまた行くへもしらず消えしかげろふ
「あはれともうしともいはじかげろふのあるかなきかに消ゆる世なれば」と例のように独言 を言っていた。