総角 あげまき【源氏物語 第四十七帖 宇治十帖の第三帖】
(第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ 第七段 実事なく朝を迎える)
源氏物語絵色紙帖 總角 詞久我通前 土佐光吉
明け行くほどの空に妻戸押し開けたまひてもろともに誘ひ出でて見たまへば霧りわたれるさま所からのあはれ多く添ひて例の柴積む舟のかすかに行き交ふ
(第四章 中の君の物語 第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る)
総角 土佐光信
紅葉を葺きたる舟の飾りの錦と見ゆるに声々吹き出づる物の音ども風につけておどろおどろしきまでおぼゆ
(第五章 大君の物語 第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り)
源氏物語 総角
あげまき(総角)
源氏物語の一巻なり。光源氏が弟宇治の宮に三人の姫君あり、大君(総角)、中君、三の君という。薫の大将大君に思を懸け、うばそくの宮の一周忌の仏事執り行ひ給ふ折、姉君の方へ
あげまきにながき契りを結びこめおなじ所によりもあはなん
姉君返し
ぬきもあへずもろき泪の玉の緒にながき契りをいかでむすばん
かく言ひ寄られしも、あね君は心強くましませしなり、中の君へ言ひ寄り心をかけ玉ふ、されども中の君と姉君と一所に臥し玉ふ所に忍び寄られしに、姉君は男の蔭見て立出て隠れ玉ふ故に、中の君と語らひて帰らる。扨てその後姉君は廿六というに空しく露と消え玉ふとなり。之を一巻の趣向となす。
源氏物語 総角
第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
第一段 秋、八の宮の一周忌の準備
第二段 薫、大君に恋心を訴える
薫は自身でも出かけて来て、除服後の姫君たちの衣服その他を周到にそろえた贈り物をした。その時に阿闍梨も寺から出て来た。二人の姫君は
名香 の飾りの糸を組んでいる時で、「かくてもへぬる」(身をうしと思ふに消えぬものなればかくてもへぬるものにぞありける)などと言い尽くせぬ悲しみを語っていたのであるため、結び上げた総角 (組み紐の結んだ塊 )の房 が御簾 の端から、几帳 のほころびをとおして見えたので、薫はそれとうなずいた。
「自身の涙を玉に貫 そうと言いました伊勢 もあなたがたと同じような気持ちだったのでしょうね」
こうした文学的なことを薫が言っても、それに応じたようなことで答えをするのも恥ずかしくて、心のうちでは貫之 朝臣 が「糸に縒 るものならなくに別れ路 は心細くも思ほゆるかな」と言い、生きての別れをさえ寂しがったのではなかったかなどと考えていた。御仏 への願文を文章博士 に作らせる下書きをした硯 のついでに、薫は、あげまきに長き契りを結びこめ同じところに縒 りも合はなん
と書いて大姫君に見せた。またとうるさく女王は思いながらも、貫 きもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばん
と返しを書いて出した。
源氏物語 総角
第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
第七段 実事なく朝を迎える
外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。
黎明 の鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出ているのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。
「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似 は決してする男でないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋を護 ろうとする男に同情のないあなたが恨めしくなるではありませんか」
こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、
「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝 だけは私の申すことをお聞き入れになってくださいませ」
と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。
「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰り路 に頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」
薫 が幾度も歎息 をもらしている時に、鶏もどちらかのほうで遠声ではあるが幾度も鳴いた。京のような気がふと薫にした。山里の哀れ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな
姫君はそれに答えて、鳥の音も聞こえぬ山と思ひしをよにうきことはたづねきにけり
と言った。姫君の居間の襖子 の口まで送って行った。
源氏物語 総角
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる
第八段 薫と大君、和歌を詠み交す
大姫君も事情はよくわかっていないのであったから、妹の女王に薫が深い愛を覚えなかったのではあるまいかと、早く帰ったことについて胸を騒がせた、妹が哀れでもあった。すべての女房たちの
仕業 の悪かったことに基因しているのであると思った。さまざまに大姫君が煩悶 をしている時に源中納言からの手紙が来た。平生よりもこの使いがうれしく感ぜられたのも不思議であった。
秋を感じないように片枝は青く、半ばは濃く色づいた紅葉 の枝に、おなじ枝 を分きて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや
あれほど恨めしがっていたことも多く言わず、簡単にこの歌にしたのが手紙の内容であるのを見て、愛が確かにあるようでもなく、ただこんなふうにだけ取り扱って別れてしまう心なのであろうかと思うことで姫君が苦痛を感じている時に、だれもだれもが返事を早くと促すのを聞いて、あなたからと今日は中の君に言うのも恥じられ、自分でするのも書きにくく思い乱れていた。山姫の染むる心はわかねども移らふかたや深きなるらん
事実に触れるでもなく書かれてある総角 の姫君の字の美しさに、やはり自分はこの人を忘れ果てることはできないであろうと薫は思った。
源氏物語 総角
第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる
夜明けに近い空模様を、横の妻戸を押しあけて宮は女王も誘って出ておながめになるのであった。霧が深く立って特色のある宇治の寂しい
景色 の作られている中を、例の柴船 のかすかに動いて通って行くあとには、白い波が筋をなして漂っていた。珍しい景をかたわらにした家であると風流心 におもしろく宮は思召した。東の山の上からほのめいてきた暁の微光に見る中の君の容姿は整いきった美しさで、最上の所にかしずかれた内親王もこれにまさるまいとお思われになった。現在の帝 の皇子であるからという気持ちで自分のほうの思い上がっているのは誤りである、この人の持つよさを今以上によく見もし、知りもしたいと思召す心がいっぱいになり、その人を少し見ることがおできになってかえってより多くがお望まれになった。河音 はうれしい響きではなかったし、宇治橋のただ古くて長いのが限界を去らずにあったりして、霧の晴れていった時には、荒涼たる感じの与えられる岸のあたりも悲しみになった。
「どうしてこんな土地に長い間いることができたのですか」
とお言いになり、宮の涙ぐんでおいでになるのを見て、女王は恥ずかしい気がした。そして今よく見る宮のお姿はきわめて艶 であった。この世かぎりでない契りをおささやきになるのを聞いていて、思いがけず結ばれた人とはいえ、かえってあの冷静なふうの中納言を良人 にしたよりはこの運命のほうが気安いと女王は思っているのであった。あの人の熱愛している人は自分でなくもあったし、澄みきったような心の様子に現われて見える点でも親しまれないところがあった、しかもこの宮をそのころの自分はどう思っていたであろう、まして遠い遠い所の存在としていた。短いお手紙に返事をすることすら恥ずかしかった方であるのに、今の心はそうでない、久しくおいでにならぬことがあれば心細いであろうと思われるのも、われながら怪しく恥ずかしい変わりようであると中の君は心で思った。お供の人たちが次々に促しの声を立てるのを聞いておいでになって、京へはいって人目を引くように明るくならぬようにと、宮はおいでになろうとする際も御自身の意志でない通い路 の途絶えによって、思い乱れることのないようにとかえすがえすもお言いになった。中絶えんものならなくに橋姫の片敷く袖 や夜半 に濡 らさん
帰ろうとしてまた躊躇 をあそばされた宮がこの歌をささやかれたのである。絶えせじのわが頼みにや宇治橋のはるけき中を待ち渡るべき
などとだけ言い、言葉は少ないながらも女王の様子に別れの悲しみの見えるのをお知りになり、たぐいもない愛情を宮は覚えておいでになった。
源氏物語 総角
第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り
遊びの一行は船で
河 を上り下りしながらおもしろい音楽を奏する声も山荘へよく聞こえた。目にも見えないことではなかった。若い女房らは河に面した座敷のほうから皆のぞいていた。宮がどこにおいでになるのかはよくわからないのであるが、それらしく紅葉の枝の厚く屋形に葺 いた船があって、よい吹奏楽はそこから水の上へ流れていた。河風がはなやかに誘っているのである。だれもが敬愛しておかしずきしていることはこうした微行のお遊びの際にもいかめしくうかがわれる宮を、年に一度の歓会しかない七夕 の彦星 に似たまれな訪 れよりも待ちえられないにしても、婿君と見ることは幸福に違いないと思われた。
宮は詩をお作りになる思召 しで文章博士 などを随 えておいでになるのである。夕方に船は皆岸へ寄せられて、奏楽は続いて行なわれたが、船中で詩の筵 は開かれたのであった。音楽をする人は紅葉の小枝の濃いの淡 いのを冠に挿 して海仙楽 の合奏を始めた。だれもだれも楽しんでいる中で、宮だけは「いかなれば近江 の海ぞかかるてふ人をみるめの絶えてなければ」という歌の気持ちを覚えておいでになって、遠方人 の心(七夕のあまのと渡るこよひさへ遠方人のつれなかるらん)はどうであろうとお思いになり、ただ一人茫然 としておいでになるのであった。おりに合った題が出されて、詩の人は創作をするのに興奮していた。
源氏物語 総角
第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護
第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る
阿闍梨は多く語らずに座を立って行った。
この常不軽の行 はこの辺の村々をはじめとして、京の町々にまでもまわって家々の門 に額を突く行であって、寒い夜明けの風を避けるために、師の阿闍梨 のまいっている山荘へはいり、中門の所へすわって回向 の言葉を述べているその末段に言われることが、故人の遺族の身にしみじみとしむのであった。客である中納言も仏に帰依する人であったから、これも泣きながら聞いていた。
中の君が姉君を気づかわしく思うあまりに病床に近く来て、奥のほうの几帳 の蔭に来ている気配 を薫は知り、居ずまいを正して、
「不軽の声をどうお聞きになりましたか、おごそかな宗派のほうではしないことですが尊いものですね」
と言い、また、霜さゆる汀 の千鳥うちわびて鳴く音 悲しき朝ぼらけかな
これをただ言葉のようにして言った。
恨めしい恋人に似たところのある人とは思うが返辞の声は出しかねて、弁に代わらせた。あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る
源氏物語 総角
第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
第一段 大君、もの隠れゆくように死す
第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり
見ているうちに何かの植物が枯れていくように
総角 の姫君の死んだのは悲しいことであった。引きとめることもできず、足摺 りしたいほどに薫は思い、人が何と思うともはばかる気はなくなっていた。臨終と見て中の君が自分もともに死にたいとはげしい悲嘆にくれたのも道理である。涙におぼれている女王を、例の忠告好きの女房たちは、こんな場合に肉親がそばで歎くのはよろしくないことになっていると言って、無理に他の室へ伴って行った。
源中納言は死んだのを見ていても、これは事実でないであろう、夢ではないかと思って、台の灯 を高く掲げて近くへ寄せ、恋人をながめるのであったが、少し袖 で隠している顔もただ眠っているようで、変わったと思われるところもなく美しく横たわっている姫君を、このままにして乾燥した玉虫の骸 のように永久に自分から離さずに置く方法があればよいと、こんなことも思った。
源氏物語 総角
第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
第四段 雪の降る日、薫、大君を思う
雪の暗く降り暮らした日、終日物思いをしていた薫は、世人が愛しにくいものに言う十二月の月の
冴 えてかかった空を、御簾 を巻き上げてながめていると、御寺 の鐘の声が今日も暮れたとかすかに響いてきた。おくれじと空行く月を慕ふかな終 ひにすむべきこの世ならねば
風がはげしくなったので、揚げ戸を皆おろさせるのであったが、四辺の山影をうつした宇治川の汀 の氷に宿っている月が美しく見えた。京の家の作りみがいた庭にもこんな趣きは見がたいものであるがと薫は思った。病体にもせよあの人が生きていてくれたならば、こんな景色 も共にながめて語ることができたであろうと思うと、悲しみが胸から外へあふれ出すような気がした。恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山には跡を消 なまし
死を求める雪山童子 が鬼に教えられた偈 の文も得たい、それを唱えてこの川へ身を投げ、亡 き人に逢 おうと薫 が思ったというのは、あまりに未練な求道者というべきである。