一葦 いちい・いちゐ 蘆葉達磨・芦葉達磨 ろようだるま・ろえふだるま 渡江達磨 とこうだるま 渡海達磨 とかいだるま

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渡江達磨 孫克弘

いちゐ(一葦)

一葦とは小舟のことである、一葉の扁舟といふに同じ、出所は『詩経』衛風河広篇に

誰謂河広、一葦枕之

の句あり、葦は芦に同じ禾本科の植物、一葦とは一束のこと、一束の葦を浮べれば、これを桴〈いかだ〉として渡ることを得るといふことから、一葦は小舟を指すことになる。

芦葉達磨に一葦と賛するものがある。

 

『東洋画題綜覧』金井紫雲

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芦葉達磨図 狩野宗秀

詩経 国風衛風

河廣(かくわう)

 

誰謂河廣 一葦杭之 

(たれかいはんかはひろしと いちゐもてわたらん)

誰謂宋遠 跋予望之

(たれかいはんそうはとほしと つまだてばもつてのぞまん)

誰謂河廣 曾不容刀

たれかいはんかはひろしと かつてたうをいれず

誰謂宋遠 曾不崇朝

(たれかいはんそうはとほしと かつててうををへず)

 

〈通釈〉

黄河が広いと誰がいう。葦舟一そうでも渡れるわ。

宋が遠いと誰がいう、つま先立てば見えるもの。

黄河が広いと誰がいう、小舟だっていらないくらい。

宋が遠いと誰がいう、朝のあいだに着くくらい。

 

詩経』上 新釈漢文大系 明治書院 1997 

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芦葉達磨 雪舟

 芦葉達磨とは、インドから中国にやって来た達磨が梁の武帝と会見したものの、禅の宗旨が理解されず、機縁の合わないことを知り、一茎の芦葉に乗って揚子江を渡り、魏に入ったという説話である。中国では南宋時代に芦葉達磨図が盛んに描かれ、日本でも十三世紀後半における宋朝禅の本格的な導入に伴い、芦葉達磨図が作られるようになる。

 

『禅—心をかたちに—』日本経済新聞社 2016

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芦葉達磨 河村若芝

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芦葉達磨 喜多川歌麿

碧巌録第一則 達磨廓然無聖

 達磨大師はインドの香至国王の第三子で、ハンニャタラ尊者の法を嗣いだのち、ベンガル湾から舟出して、三年かかって広東につき、いまの南京に入って梁の武帝に謁したと伝えられております。その時すでに年百三十歳だったということです。

 当時シナは南北二つに分かれ、北の洛陽には北魏が都し、南には梁の国があったわけです。武帝は仏心天子といわれるほどの仏教信者で、つねに袈裟をつけて放光般若経を講じたほどで、五経義注二百余巻その他多くの著述もあるといわれます。しかしどうも現世利益を求めた形跡があります。達磨大師にお会いになると最初に「朕は寺を起し僧を度す、何の功徳かある」と、質問されたようです。達磨はニベもなく「無功徳——そんなものは、屁のつっかい棒ほどの功徳もないわい」と答えました。

 そこで本則にあるように「それでは仏法のギリギリ、禅の結局のところとは何ですか」と、二の矢を放ったわけです。達磨さんは「廓然無聖——カラリッとして何もござらんわい」と、相変わらず取りつく島もありません。聖諦とか俗諦とか、あるいは迷いとか悟りとか、そんなもののない世界が禅だ、とでもいうのでしょうか。

 「朕に対する者は誰ぞ——ではそこにいる、そなたは一体何ものですか」「不識」この不識が問題です。今北洪川禅師は、この不識に注して「語り尽くす山雲海月の情」といわれました。不識という一言で、思いのたけを言いつくしているというのです。「名なしの権兵衛でござる」とでもいったら如何でしょうか。こういうところが「東湧西没、逆順縦横、与奪自在」とでもいうのでしょう。ああいえば、こういい、東で迎えたら西へ抜けたとでもいうのでしょうか。

 武帝はそれから二三十年後には、侯景というものにそむかれ幽閉中に死んだそうです。功徳を求めた報いといったら、言いすぎでしょうか。達磨はそれから魏の都洛陽に行きましたが、孝明帝には謁見せず、そのまま嵩山の少林寺に入ってしまいました。達磨に見限られた洛陽もいくばくもなく、兵火に焼かれたと申します

 

『碧巌録』大森曹玄 橘出版 2004

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見立芦葉達磨 鈴木春信

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見立芦葉達磨 鈴木春信

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風流やつし蘆葉達磨 鈴木春信

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雨中の達磨と女 鈴木春信

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女を背負って川を渡る達磨 鈴木春信

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女達磨 一筆齊文調