藤裏葉 ふじのうらば・ふぢのうらば【源氏物語 第三十三帖】
(第一章 夕霧の物語 第五段 藤花の宴 結婚を許される)
藤裏葉 土佐光信
藤の裏葉の
とうち誦じたまへる御けしきを賜はりて頭中将花の色濃くことに房長きを折りて客人の御盃に加ふ
(第一章 夕霧の物語 第五段 藤花の宴 結婚を許される)
紫にかことはかけむ藤の花まつより過ぎてうれたけれども
宰相盃を持ちながらけしきばかり拝したてまつりたまへるさまいとよしあり
(第一章 夕霧の物語 第五段 藤花の宴 結婚を許される)
ふぢのうらは(藤の裏葉)
源氏物語の一巻なり、源氏が御子なる夕桐の中将、兼ねて内大臣の姫君雲井の雁を恋ひせられしを、卯月といふに大臣の庭に藤の花の盛りなる折、大臣中府を招き、盃のついでに
春日さす藤のうら葉の打とけて君し思はヽ我もたのまん
の歌の意とて、藤のうら葉のといひしを、中将
紫にことはをかけん藤の花まつよりすきてうれたけれども
幾かへり露けき春を過しきて花のひもとくをりにあふらん
と詠みしかば、遂に雲井の雁を中将に与へしとなり、後に三条の上といふ
源氏物語図屏風
(第三章 光る源氏の物語 第四段 十月二十日過ぎ、六条院行幸)
源氏香の図 藤裏葉 豊国
春日さす藤のうら葉の打とけて君し思はヽ我もたのまん
風流やつし源氏 藤裏葉 栄之
第一章 夕霧の物語 雲居雁との筒井筒の恋実る
第五段 藤花の宴 結婚を許される
月が出ても藤の色を明らかに見せるほどの明りは持たないのであるが、ともかくも藤を愛する宴として酒杯が取りかわされ、音楽の遊びをした。しばらくして大臣は酔った振りになって宰相中将に酒をしいようとした。源中将は酔いつぶされまいとして、それを辞し続けていた。
「あなたは末世に過ぎた学才のある人物でいながら、年のいった者を憐 んでくれないのは恨めしい。書物にもあるでしょう、家の礼というものが。甥 は伯父 を愛して敬うべきものですよ。孔子の教えには最もよく通じていられるはずなのだが、私を悩まし抜かれたとそう恨みが言いたい」
などと言って、それは酒に酔って感傷的になっているのか源中将を少しばかり困らせた。
「伯父様を決して粗略には思っておりません。御恩のあるお祖父 様の代わりと思いますだけでも、私の一身を伯父様の犠牲にしてもいいと信じているのですが、どんなことがお気に入らなかったのでしょう。もともと頭がよくないのでございますから、自身でも気づかずに失礼をしていたのでございましょう」
とうやうやしく源中将は言うのであった。よいころを見て大臣は機嫌 よくはしゃぎ出して「藤のうら葉の」(春日さす藤のうら葉のうちとけて君し思はばわれも頼まん)と歌った。命ぜられて頭 中将が色の濃い、ことに房 の長い藤を折って来て源中将の杯の台に置き添えた。源中将は杯を取ったが、酒の注 がれる迷惑を顔に現わしている時、大臣は、紫にかごとはかけん藤の花まつより過ぎてうれたけれども
と歌った。杯を持ちながら頭を下げて謝意を表した源中将はよい形であった。いく返り露けき春をすぐしきて花の紐 とく折に逢 ふらん
と歌った源中将は杯を頭中将にさした。たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もまさらん
頭中将の歌である。
第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる
第二段 夕霧夫妻、三条殿に移る
源中納言はお
亡 くなりになった祖母の宮の三条殿へ引き移った。少し荒れていたのをよく修理して、宮の住んでおいでになった御殿の装飾を新しくして夫婦のいる所にした。二人にとっては昔を取り返しえた気のする家である。庭の木の小さかったのが大きくなって広い蔭 を作るようになっていたり、ひとむら薄 が思うぞんぶんに拡 がってしまったりしたのを整理させ、流れの水草を掻 き取らせもして快いながめもできるようになった。
美しい夕方の庭の景色 を二人でながめながら、冷たい手に引き分けられてしまった少年の日の恋の思い出を語っていたが、恋しく思われることもまた多かった。当時の女房たちは自分をどう思って見たであろうと雲井の雁は恥ずかしく思っていた。祖母の宮に付いていた女房で、今までまだそれぞれの部屋 に住んでいた女房などが出て来て、新夫婦がここへ住むことになったのを喜んでいた。
源中納言、なれこそは岩もるあるじ見し人の行くへは知るや宿の真清水
夫人、なき人は影だに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
などと言い合っている時に、太政大臣は宮中から出た帰途にこの家の前を通って、紅葉 の色に促されて立ち寄った。宮がお住まいになった当時にも変わらず、幾つの棟 に分かれた建物を上手 にはなやかに住みなしているのを見て大臣の心はしんみりと濡 れていった。中納言は美しい顔を少し赤らめて舅 の前にいた。美しい若夫婦ではあるが、女のほうはこれほどの容貌 がほかにないわけはないと見える程度の美人であった。
第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる
第四段 十月二十日過ぎ、六条院行幸
十月の二十日過ぎに六条院へ
行幸 があった。興の多い日になることを予期されて、主人の院は朱雀 院をも御招待あそばされたのであったから、珍しい盛儀であると世人も思ってこの日を待っていた。六条院では遺漏のない準備ができていた。午前十時に行幸があって、初めに馬場殿へ入御 になった。左馬寮 、右馬寮 の馬が前庭に並べられ、左近衛 、右近衛 の武官がそれに添って列立した形は五月の節会 の作法によく似ていた。午後二時に南の寝殿へお移りになったのであるが、その通御の道になる反橋 や渡殿 には錦 を敷いて、あらわに思われる所は幕を引いて隠してあった。東の池に船などを浮 けて、御所の鵜 飼い役人、院の鵜飼いの者に鵜を下 ろさせてお置きになった。小さい鮒 などを鵜は取った。叡覧 に供えるというほどのことではなく、お通りすがりの興におさせになったのである。山の紅葉 はどこのも美しいのであるが、西の町の庭はことさらにすぐれた色を見せているのを、南の町との間の廊の壁をくずさせ、中門をあけて、お目をさえぎる物を省いて御覧にお供えになったのであった。二つの御座 が上に設けられてあって、主人の院の御座が下がって作られてあったのを、宣旨 があってお直させになった。これこそ限りもない光栄であるとお見えになるのであるが、帝 の御心 にはなお一段六条院を尊んでお扱いになれないことを残念に思召 した。
池の魚を載せた台を左近少将が持ち、蔵人所 の鷹飼 いが北野で狩猟してきた一つがいの鳥を右近少将がささげて、寝殿の東のほうから南の庭へ出て、階段 の左右に膝 をついて献上の趣を奏上した。