花宴・花の宴 はなのえん・はなのゑん【源氏物語 第八帖】
源氏物語画帖 花宴 土佐派
(第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う)
朧月夜に似るものぞなきとうち誦じてこなたざまには来るものかいとうれしくてふと袖をとらへたまふ女恐ろしと思へるけしきにてあなむくつけこは誰そとのたまへど何か疎ましきとて深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ
(第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う)
花宴
憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ
と言ふさま艶になまめきたりことわりや聞こえ違へたる文字かなとて
いづれぞと露のやどりを分かむまに 小笹が原に風もこそ吹け
(第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う)
源氏物語画帖 花宴 土佐派
几帳越しに手をとらへて
梓弓いるさの山に惑ふかな ほの見し月の影や見ゆると
(第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴)
はなのゑん 花の宴
源氏物語の一巻にて、通例源氏花の宴と称す。紅葉賀の行はれし次の年、大内にて花見あり。南殿の桜盛りに咲ける花の下にて公卿上人集りて詩歌などの催あり。此時の東宮は朱雀院とて光源氏が異腹の兄なり。扨源氏の君は藤壺の方を忍びありき給ひ、弘徽殿の簾に佇み給ふに、折から簾の内より女房の声して、朧月夜にしくものになきと詠みけるあり。源氏即ち忍びよりて終に通ぜしとなり。此女房は朱雀院の御母弘徽殿の妹にて六の君といはれし方なり。朧月夜の内侍とは称す。源氏に通ぜしばかりて女御にもなり得ず内侍にて終りぬといふ。
季節の花を観賞しながら催す酒宴。特に、春の観桜の宴にいう。《季・春》
源氏 花のゑん 奥村政信
憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ
源氏香の図 花の宴 豊国
いづれぞと露のやどりを分かむまに小笹が原に風もこそ吹け
風流やつし源氏 花の宴 栄之
源氏物語 花宴
第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う
明るい月が上ってきて、春の夜の御所の中が美しいものになっていった。酔いを帯びた源氏はこのままで
宿直所 へはいるのが惜しくなった。殿上 の役人たちももう寝 んでしまっているこんな夜ふけにもし中宮へ接近する機会を拾うことができたらと思って、源氏は藤壺の御殿をそっとうかがってみたが、女房を呼び出すような戸口も皆閉じてしまってあったので、歎息 しながら、なお物足りない心を満たしたいように弘徽殿の細殿の所へ歩み寄ってみた。三の口があいている。女御は宴会のあとそのまま宿直に上がっていたから、女房たちなどもここには少しよりいないふうがうかがわれた。この戸口の奥にあるくるる戸もあいていて、そして人音がない。こうした不用心な時に男も女もあやまった運命へ踏み込むものだと思って源氏は静かに縁側へ上がって中をのぞいた。だれももう寝てしまったらしい。若々しく貴女らしい声で、「朧月夜 に似るものぞなき」と歌いながらこの戸口へ出て来る人があった。源氏はうれしくて突然袖 をとらえた。女はこわいと思うふうで、
「気味が悪い、だれ」
と言ったが、
「何もそんなこわいものではありませんよ」
と源氏は言って、さらに、深き夜の哀れを知るも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ
とささやいた。抱いて行った人を静かに一室へおろしてから三の口をしめた。この不謹慎な闖入者 にあきれている女の様子が柔らかに美しく感ぜられた。慄 え声で、
「ここに知らぬ人が」
と言っていたが、
「私はもう皆に同意させてあるのだから、お呼びになってもなんにもなりませんよ。静かに話しましょうよ」
この声に源氏であると知って女は少し不気味でなくなった。困りながらも冷淡にしたくはないと女は思っている。源氏は酔い過ぎていたせいでこのままこの女と別れることを残念に思ったか、女も若々しい一方で抵抗をする力がなかったか、二人は陥るべきところへ落ちた。
源氏物語 花宴
第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴
「苦しいのにしいられた酒で私は困っています。もったいないことですがこちらの宮様にはかばっていただく縁故があると思いますから」
妻戸に添った御簾の下から上半身を少し源氏は中へ入れた。
「困ります。あなた様のような尊貴な御身分の方は親類の縁故などをおっしゃるものではございませんでしょう」
と言う女の様子には、重々しさはないが、ただの若い女房とは思われぬ品のよさと美しい感じのあるのを源氏は認めた。薫物 が煙いほどに焚 かれていて、この室内に起 ち居 する女の衣摺 れの音がはなやかなものに思われた。奥ゆかしいところは欠けて、派手 な現代型の贅沢 さが見えるのである。令嬢たちが見物のためにこの辺へ出ているので、妻戸がしめられてあったものらしい。貴女 がこんな所へ出ているというようなことに賛意は表されなかったが、さすがに若い源氏としておもしろいことに思われた。この中のだれを恋人と見分けてよいのかと源氏の胸はとどろいた。「扇を取られてからき目を見る」(高麗人 に帯を取られてからき目を見る)戯談 らしくこう言って御簾に身を寄せていた。
「変わった高麗人 なのね」
と言う一人は無関係な令嬢なのであろう。何も言わずに時々溜息 の聞こえる人のいるほうへ源氏は寄って行って、几帳 越しに手をとらえて、「あづさ弓いるさの山にまどふかなほの見し月の影や見ゆると
なぜでしょう」
と当て推量に言うと、その人も感情をおさえかねたか、心いる方 なりませば弓張 の月なき空に迷はましやは
と返辞をした。弘徽殿 の月夜に聞いたのと同じ声である。源氏はうれしくてならないのであるが。